上小倉村(読み)かみこぐらむら

日本歴史地名大系 「上小倉村」の解説

上小倉村
かみこぐらむら

[現在地名]上河内村上小倉

今里いまざと村の東、鬼怒川右岸に位置し、西部を北端逆木さかさぎ地区で同川から分流した西鬼怒川(逆木用水)が南流する。村名は落合おちあい郷の小倉内記が開墾したことによると伝え、天授六年(一三八〇)延寿えんじゆ寺が創建された頃に同氏の小倉館も築かれたという。宇都宮氏旧臣姓名書には上小倉村の神山姓一名がみえる。文禄四年(一五九五)検地帳(杉山壮雄文書)では高徳給分を含む高九八二石余。近世は初め宇都宮藩領、寛延二年(一七四九)下総佐倉藩領、明和元年(一七六四)再び宇都宮藩領となり幕末に至る。慶安郷帳では高八二三石余、田方四八一石余・畑方三四一石余。

上小倉村
かみおぐらむら

[現在地名]弥生町上小倉

井崎いさき村の西、井崎川と番匠ばんじよう川の合流点西に位置する。慶長一六年(一六一一)の上ノ村検地目録(佐伯藩政史料)に上小倉村とみえる。郷帳類では上野かみの村に含まれたと思われる。旧高旧領取調帳では上小倉村の高三二三石余。享和三年(一八〇三)の郷村仮名付帳(佐伯藩政史料)によれば、地内に山田内やまだうち畑木はたぎ山王さんのう戸知原どてはら(土手原)がある。文化七年(一八一〇)の家数九八・人数二三(温故知新録)

上小倉村
かみおぐらむら

[現在地名]柏原町上小倉

西は下小倉村と境を接し、東は古代から交通の難所として知られる山陰道かねさか峠を越えて多紀たき郡と通じる。柏原川上流域の狭い谷間の地域で、河岸段丘上に集落と耕地が形成されている。中世小椋おぐら庄の遺称地。古くは下小倉村とともに小倉村に含まれた。慶長三年(一五九八)織田信包(柏原藩)領となる。正保郷帳に村名がみえ田高二〇五石余・畠高六六石余、柴山・林あり、日損少し。柏原藩領。慶安三年(一六五〇)幕府領となり、国立史料館本元禄郷帳では旗本植村領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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