上境村(読み)かみざかいむら

日本歴史地名大系 「上境村」の解説

上境村
かみざかいむら

[現在地名]直方市上境

鷹取たかとり山の西方、遠賀おんが川支流の彦山川下流域に位置し、彦山川に注ぐ福地ふくち川が流れる。西は下境村、南西は彦山川を挟んで中泉なかいずみ村、南東は豊前国田川郡鋤木田すいきだ(現赤池町)、東は永満寺えいまんじ村、北東ははた村。下境村とともに中世のさかい郷の遺称地で、上堺村・上堺井村とも記した。中泉村・永満寺村・畑村は古く当村の枝郷であったが、中泉村は明暦元年(一六五五)(続風土記拾遺)、永満寺村は明暦年中に(続風土記附録)それぞれ分村したといい、畑村を含めて遅くとも安永二年(一七七三)までには三村とも別村になっていたことが確認できるという(直方市史)。ただし、これら諸村は分村した後も国絵図や郷帳類では当村の枝郷として扱われていた。小早川時代の指出前之帳では下境村の枝郷として扱われ、同村に含まれて高付されている。

上境村
かみさかいむら

[現在地名]横手市上境かみざかい

西は下境しもさかい村枝郷馬場ばば村・堰合せきあい村、南は上八町かみはつちよう村に接する。角間川かくまがわ街道筋で、北部を流れる横手川あさひ川)で仙北郡と境する。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図には上境村一千九〇〇石で、同年幕府へ提出した正保高帳には境村と記して両村の高を合わせた(「郷村御調覚書」県立秋田図書館蔵)とあるので、村高は上境村・下境村の合計であり、元禄一五年(一七〇二)の郷帳で下境村を新田村として分離するまで同様に扱われた。宝永二年(一七〇五)の黒印高帳(秋田県庁蔵)では、上境村は一千一三一石余とある。

享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」には枝郷として甘辺あまべ村・間明田まみようだ村・ぬま村・大蔵小屋おくらごや村・菅生すごう村・杉目境すぎのめさかい村・かみ村・河原田かわらだ村・たて村・大田ノ上おおたのかみの村をあげ、これらの総称が上境村であった。

上境村
かみざかいむら

[現在地名]飯山市大字一山いちやま

温井ぬくい段丘の南端部にあり、東は千曲川谷、南西はくろ川を境とし曾根そね村に接する。曾根村より台地へ登った所に中外なかぞと大久保おおくぼの集落があり、大久保より桑名くわな川に至る。中外より千曲川岸へ下った所に下村したむら集落があり、渡河すれば野沢温泉のざわおんせんに至る。

大久保の東、下境しもざかい村との境、千曲川断崖上に山城があり、郭二、空堀二がある。

応永三二年(一四二五)建立桑名川白山社本殿(重要文化財)を昭和三〇年(一九五五)に解体修理した時発見された右側登裏甲板上端墨書に「さいしき(彩色)の僧しなの国み□□こをり かみさかい入道沙見□□(花押)」とあるのが村名の初見(白山神社本殿修理工事報告書)

上境村
かみざかいむら

[現在地名]烏山町上境

下境村の北、蛇行する那珂川の左岸に位置し、集落は同川沿いの平地および河岸段丘上にある。北は大沢おおさわ村など、西は那珂川を挟み烏山城下などに対する。地内には縄文時代の遺跡である三ッ木みつぎ遺跡・西和久にしわく遺跡がある。天文一五年(一五四六)七月に没した那須政資の法要に「上さかい」では大谷兵部少・阿久津備中などが香典を納めている(元亀三年七月日「那須政資法要香銭注文写」那須文書)

江戸時代を通じ烏山藩領で、畑方年貢米納の村。寛永一三年(一六三六)の堀親良遺領村目録(神奈川県堀直敬文書)に村名がみえ、高六六五石余、ほかに「同所見出シ」二〇石余。

上境村
かみさかいむら

[現在地名]桜村上境

北は上野うえの村。村の東半は桜川沿いの水田地帯で、西半は台地。元禄郷帳に「古者境江村」とあり、正保―元禄期(一六四四―一七〇四)に上境村に改めたという(新編常陸国誌)。元禄一二年土浦藩領となり(土浦市史)、元禄郷帳の村高は四三四石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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