三池炭鉱(読み)みいけたんこう

日本歴史地名大系 「三池炭鉱」の解説

三池炭鉱
みいけたんこう

現在の大牟田市・高田たかた町および熊本県荒尾市にあった炭鉱。正式名称は三井鉱山三池鉱業所。現在は閉山。炭質は粘結性を有して硫黄分が多く、発熱量は八一〇〇カロリーと高位、汽缶焚料・セメント・鍛冶・コークス原料炭などに用いられた。搬出は三池港からの積出しが多く、第二次世界大戦前は三井物産の手を経て名古屋・阪神・中国・九州など日本各地およびシンガポール、香港、上海といった極東アジア市場に送炭された(沿線炭鉱要覧)

〔近世〕

当鉱付近では室町時代に農民が稲荷とうか山付近で石炭を発見したとする伝承がある。その後享保期(一七一六―三六)平野ひらの山坑が開かれ、江戸時代末期には稲荷山で塚本忠次郎と藤本伝吾らが採掘を行ったとされる。また三池藩領においても領民により採掘が行われ、安政年間(一八五四―六〇)には焚石山会所が開設されて増産が図られた。近世の採炭は手掘りにとどまっていたが、平野山の大浦おおうら坑のみで日産二、三〇万斤に達しており、当時日本で最大規模の炭鉱であった。ただし三池・柳川両藩の間で境界争いがあり、それは明治初期まで続いた(「大牟田市史」「筑豊炭礦誌」「日本石炭産業分析」など)

〔明治・大正期〕

 三潴みづま県は明治六年(一八七三)、政府に対し三池付近の炭鉱の官営化を請願、許可が下りて官営三池炭鉱となった。官営化直後、政府は経営の近代化、具体的には体系的な生産・輸送の構築や動力化・機械化を図った。まず明治六年には大浦斜坑が開削された。次いで大浦坑における汽缶および巻揚機の設置、七浦ななうら竪坑(明治一二年)およびやま竪坑の開削、港湾の浚渫、大浦坑―大牟田川河口間の馬車鉄道の敷設などがなされた。さらに政府はイギリス人技師ポッターを招聘(在任は明治九―一五年)、生産・輸送を中心とする技術の向上を図った。この結果出炭高は官営化以後順調に伸張し、明治一〇年に五万トン余であったものが同一二年には一〇万トン、同一七年には二〇万トンを突破した。さらに同一八年には勝立かつだち坑、同二〇年には宮浦みやうら坑が相次いで開削され、零細な採掘坑を廃坑とするなど炭鉱規模の拡張が推進された。しかし一方では官営化直後から囚人を多く稼働させ、同二一年には全鉱夫の実に七割に達しており、出炭高の増加は一面において囚人労働にもよっていたことになる(三池鉱山年報)。当鉱炭は明治九年には三井物産に委託販売することとなり、香港・上海市場向けの販路が開拓され、東アジア石炭市場においてシェアを確保した(日本石炭産業分析)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三池炭鉱」の意味・わかりやすい解説

三池炭鉱
みいけたんこう

福岡県大牟田市と熊本県荒尾市にまたがる炭鉱。文明1(1469)年三池郡稲荷村(とうかむら)の農夫が稲荷山で焚き火が黒石に着火したのを見て発見したと伝えられている。享保6(1721)年柳川藩が稲荷山の隣地平野山に開坑。安政3(1856)年三池藩が平野山の隣地生山に開坑すると境界争いが起こり,工部省は 1873年これらの炭鉱の官有を決定(→官営鉱山),1875年工部省鉱山寮の支配下に置き三池鉱山として採炭を開始した。1876年にはイギリス人技師フレデリック・アントニー・ポッターの指導で大浦竪坑を開削,また宮原と万田にも新坑が掘削され,炭鉱の近代化が始まった。1889年三井物産(→三井財閥)に払い下げられ,団琢磨を事務長とした三池炭礦(→日本コークス工業)が設立された。三池炭田のうち三池本層,三池上層および三池第2上層の 3層を採掘した。採掘区域はすべて有明海の海底(→海底炭田)であったため,初島および三池島の人工島を海上に設けて通気,運搬に供した。第2次世界大戦後,石炭産業が衰退していくなか,1959年労働争議が勃発,大きな社会問題に発展した(→三池争議)。1963年三川坑で爆発事故が発生して 458人の犠牲者を出した(→三井三池炭鉱爆発事故)。石炭需要の減少により 1997年3月30日閉山。閉山後,関連施設が国の重要文化財,史跡に指定された。宮原坑と万田坑は 2015年「明治日本の産業革命遺産:製鉄・製鋼,造船,石炭産業」として世界遺産文化遺産に登録された。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「三池炭鉱」の解説

三池炭鉱
みいけたんこう

福岡県大牟田市・熊本県荒尾市などにあった三井鉱山経営の日本最大の炭鉱。伝承では三池炭の発見は文明期(1469~87)。享保期(1716~36)に柳河藩,嘉永期(1848~54)に三池藩が開坑したが,両者の鉱区争いが生じ,1873年(明治6)官有となる。外国人技師ポッターらの指導で洋式炭鉱として発展,89年三井に払い下げられ,三井鉱山の経営で日本最大の炭鉱に成長した。当初は囚人労働を活用,第2次大戦中には大牟田石炭コンビナートが形成された。1951年(昭和26)海底採掘のため人口島の初島を竣工。59~60年三井三池争議が発生,総資本と総労働の対決といわれたが,三池労組が分裂して組合側が敗北した。63年三川鉱爆発事故発生。73年三井石炭鉱業に経営を移管。最高出炭は70年度の657万トンである。97年(平成9)3月廃鉱。

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旺文社日本史事典 三訂版 「三池炭鉱」の解説

三池炭鉱
みいけたんこう

福岡県大牟田市を中心とする九州第一の炭鉱
江戸時代に柳川藩・三池藩が経営,1873年明治政府が没収してから洋式技術による官営の近代的炭鉱となった。'88年三井に払い下げられ,以後三井財閥の重要な収入源となった。第二次世界大戦後,労働争議が活発化,1959〜60年三井三池争議がおこった。'97年廃鉱。

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世界大百科事典(旧版)内の三池炭鉱の言及

【大牟田[市]】より

…1469年(文明1)に石炭が発見され,1790年(寛政2)から三池藩が炭鉱を直営したが出炭は少なく,長く農漁村であった。1873年(明治6)炭鉱は官営となり採炭が強化されて炭鉱町が発達し,88年三井に払い下げられてから日本一の三池炭鉱として発展するとともに,機械,コークス,化学,亜鉛精錬など石炭関連の諸工業がおこり,1930年代には石炭化学コンビナートを形成した。50年代から〈エネルギー革命〉の影響を強く受け,60年の三池争議がおこった。…

【鉱山災害】より

… 災害の度数はあまり高くないが,いったん起きた場合とくに重大災害となるおそれのあるのはガス・炭塵爆発,ガス突出である。1963年11月に起こった三池炭鉱の爆発では死者458人を含む死傷者合計1175人を出し,また81年10月には夕張新炭鉱でガス突出および二次災害(ガス爆発)が発生し死者93人,重軽傷者39人の罹災者を生じた。このように多くの死傷者が出た場合には,鉱山変災という言葉を使うことがある。…

【石炭】より

… 炭鉱の由来に関する伝説も各地に残されている。1469年(文明1),筑後国(福岡県)三池郡稲荷(いなり)村の稲荷山で,農夫がたき火をした際,かたわらの黒石に燃え移ったのを見て石炭を発見し,これが三池炭鉱の由来になったという。筑豊地方の石炭の採掘は元禄年間(1688‐1704)に始まり,初めは薪炭の補助として使われたが,悪臭が強く,あまり普及しなかった。…

【石炭鉱業】より

…とくに炭鉱開発の科学的設計,蒸気力利用の排水機,巻上機の設置によって大規模炭鉱の開発が可能になった。炭鉱の近代化は幕末・維新期の佐賀藩とイギリス人T.B.グラバーとの共同経営下の高島炭鉱に始まり,ついで1870年代後半から官営三池炭鉱で推進され,80年代後半の企業勃興期からは筑豊炭田をはじめとして広範に展開され,90年代末には日本において近代的炭鉱業が確立した。採炭過程は依然として手労働に依存しており,鉱夫管理のために納屋制度,飯場制度などの間接管理体制が広く採用されていた。…

【三池炭田】より

…現在稼行中の炭鉱はない。【大橋 脩作】
[三池炭鉱]
 福岡県大牟田市を中心に所在する日本最大の炭鉱。三池の石炭は1469年(文明1)ころ稲荷山(とうかやま)で発見されたのが最初と伝えられているが,開発は江戸時代中期以降のことで,三池藩が稲荷山を経営し,さらに嘉永年間(1848‐54)に生山(いけやま)を開坑し,柳河藩は享保年間(1716‐36)に平野山を開坑した。…

【柳河藩】より

…4代鑑任(あきたか)は銀札を発行し,櫨(はぜ)運上金の制度を設け,家老小野春信は1721年(享保6)三池郡平野山に炭坑を開いた。これが三池炭鉱の創始といわれる。享保の飢饉以降藩財政は窮乏したが倹約令や藩札発行をみる程度で,積極的な藩政改革は行われていない。…

※「三池炭鉱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」