三柳村(読み)みつやなぎむら

日本歴史地名大系 「三柳村」の解説

三柳村
みつやなぎむら

[現在地名]米子市両三柳りようみつやなぎ三本松さんぼんまつ一―四丁目・上後藤かみごとう三丁目

米原よねはら村・西福原にしふくばら村の西にあり、北は美保みほ湾、南は米子城下たて町・なだ町に接する広い地域を占める。南部をよね川が南東から北西へ流れる。海池かいけ村地先が開発されて成立した村で、享和三年(一八〇三)幕府新田村として届出された(藩史)。ただし領内限りでは元禄(一六八八―一七〇四)頃すでに三柳村の名が用いられていたとみられる。同村からは明和二年(一七六五)に上後藤村が分立(在方諸事控)、その後河崎かわさき・下三柳の各村が分立した。下三柳村に対し、上三柳村ともよばれた(「伯耆志」など)。天保郷帳では高八〇四石余、海池村新田と注記される。免三ツ四分。米子荒尾氏の給地があった(給人所付帳)

三柳村
みつやなぎむら

[現在地名]羽島市正木町三ッ柳まさきちようみつやなぎ

新井あらい村の南、木曾川西岸沿いに位置する大浦おおうら輪中内の村。美濃路が通る。天正一二年(一五八四)五月一六日、徳川家臣本多忠勝は蘆田時直に「濃州境目おうら、三柳」に陣を取るよう命じている(→大浦村。年未詳六月八日の下間頼龍奉本願寺御印書(円覚寺文書)には「三つ柳」とみえる。慶長郷帳では高五〇八石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳によると平岡頼資(徳野藩)領。正保郷帳では田方二八〇石余・畑方二二八石余、徳野藩(承応二年廃藩)元禄郷帳では幕府領。文化七年(一八一〇)の村明細帳でも同領、村は二組に分れ、各々庄屋が置かれている。

三柳村
みつやなぎむら

[現在地名]三条市三柳

井栗いぐり村の南にあり、南はうししま村、東は上保内かみほない村。籠場かごば村から北流していた五十嵐いからし川旧河道の微高地上に成立した村落である。近世ははじめ三条藩領で、元和六年(一六二〇)三条御引渡郷村帳(幸田重寛氏文書)に村名がみえ、高六九〇石六斗余。同九年幕府領となる。慶安二年(一六四九)以降は村上藩領で貞享元年(一六八四)郷村高辻帳では五四一石七斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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