大浦村(読み)おおうらむら

日本歴史地名大系 「大浦村」の解説

大浦村
おおうらむら

[現在地名]大浦町 越路こえじさかき木連口きれんくち宮園みやぞの福元ふくもと平原ひらばる大木場おおこば野下のした仲組なかぐみ久志地くしじ久保くぼ柴内しばうちはる永田ながた有木ありのき上之門うえのかど小浜おばま秋目峠あきめとうげ

河辺郡に所属する鹿児島藩直轄領加世田郷内の村。東は同郷小湊こみなと村・内山田うちやまだ(現加世田市)、南は久志秋目くしあきめ郷久志村(現坊津町)、西は同村および同郷秋目村(現同上)、加世田郷赤生木あこうぎ(現笠沙町)、北は海に臨む。北東端に塩屋しおや(越路浦)がある。村内中央部を大浦川が北流し、大浦湾に注ぐ。かつての大浦湾は現在の大浦町役場所在地付近まで深く湾入していたが(元禄国絵図など)、近世に干拓が進み、近世後期には小浜付近までが埋立てられた干拓以前は小浜の北に米山こめやま鼻という岬があった。久志地と宮園に郷士集落があった。

中世は加世田別符のうちに含まれていた。永和元年(一三七五)一〇月一日・明徳四年(一三九三)一一月二七日および年未詳の三通の加世田別符半分坪付注文(島津家文書)に「おうら」あるいは「おうらはんふん」とみえる。

大浦村
おおうらむら

[現在地名]金沢市大浦町

寺町てらまち村の北、金腐かなくさり川下流左岸、浅野川との間のデルタ地帯、河北潟縁辺に位置。中世は倉月くらつき庄の内。大永七年(一五二七)六月、中山家から「大浦高桑六郎左衛門尉」が「岩方村乃太名四分一」の名主職を得ている(名主職補任状案)。六郎左衛門尉は天正四年(一五七六)八月二一日に金沢御堂の七里頼周を弾劾した河北・石川両郡一揆旗本連署状(北徴遺文)にみえる高桑源左衛門尉茂数(武数か)と同族と考えられる。年未詳四月一日の本願寺実如書状(光徳寺文書)によれば木越光徳きごしこうとく寺の二十八日講に属する「八田・大浦・千木・木越」諸村の門徒が銀子三枚の志を本願寺に贈っている。天正八年閏三月の木越合戦に際しては長連竜が「大浦口」から木越を攻撃し、湖(河北潟)の堰を切開いて光徳寺を中心とする木越の要塞を陥落させた(「昔日北華録」加越能文庫)。同一四年正月二二日の前田利家印判状写(黒津舟神社文書)黒津舟くろつぶね権現(現内灘町)再興を命じられた村々に「大浦村」が含まれる。

なお明応九年(一五〇〇)一一月一三日および永正二年(一五〇五)一〇月一八日の幕府奉行人奉書(美吉文書)にみえる摂津元親領「倉月庄内中大浦村」が当地に比定される。

大浦村
おおうらむら

[現在地名]上対馬町大浦

鰐浦わにうら村の南、西面にしめに開いた浦(大河内湾)に臨む。中世よりみえる。防人にかかわるという撃方うつかた山、海上交通の要所とされるたけノ浦があり、文禄・慶長の役では鰐浦とともに朝鮮半島への渡航の拠点となり、軍監毛利高政は当地の枝浦の河内かわち村に駐在、大浦家には小西行長・毛利高政・宗義智・柳川調信らの書状があり、軍勢の通過に伴う混乱を防止するための指示が多い。天正二〇年(一五九二)四月一二日、兵船七〇〇余艘が大浦を発したという(西征日記)。宣祖二九年(一五九六)朝鮮王朝の通信正使の黄慎はその帰途の一一月七日「豊崎郡の大浦」に到着、風を待って二三日にようやく渡海している(日本往還記)

大浦村
うぷらむら

[現在地名]平良市大浦おおうら

西原村(ニスムラ)の北に位置し、北は島尻すまずー村・狩俣かまた村。東西両側ともに海に面するが、西は大崎などが形成する南北に広い内海(大浦湾)となっている。平良ぴいさら間切に属する。ワービヌ御嶽・スタヌ御嶽などがあり、粟プーや麦プーなどの祭祀が行われている。ワービヌ御嶽に祀られる大浦多志豊見親(ウプラダツトゥユミャ)は唐人で、中国大陸が戦乱(一四世紀後半の元明動乱期か)に明け暮れていたとき太平の地を求めて船出し、大浦にたどり着き、大浦多志豊見親と称されたという(雍正旧記)。集落は近年まで城郭が張回され、東西南の三方に石門が置かれていた。その北東の丘陵に大浦多志うぷらだつ遺跡が確認され、土器の採集にとどまるが、同御嶽は集落の南方丘陵上にあり、その麓にトゥガー(唐井)とよばれる保喜里井ふぎがーがみられることから、雍正旧記に記す大浦多志城の跡と考えられる。

大浦村
おおうらむら

[現在地名]西浅井町大浦

黒山くろやま村の東、琵琶湖北岸の大浦川河口に開けた平地に立地。大浦湊がある。南流する大浦川に八田部はたべ川と諸子もろこ川が合流。大浦船崎おおうらふなさき村とも称する。東部山地の小山おやま峠越で八田部盆地の小山村と結ぶ。大浦湊は塩津しおつ海津かいづ(現高島郡マキノ町)とともに湖北三湊の一。「万葉集」巻一一に「霰降り遠つ大浦に寄する波よしも寄すとも憎からなくに」とみえ、古代以来畿内と北陸を結ぶ湖上交通の良港で、ここを起点として大浦川沿いの大浦道を北上、沓掛くつかけ村で塩津越に合流、あるいは山門やまかど村字茶屋ちややで北西に折れ大浦越(山中越)七里半しちりはん越に合流して敦賀と結んでいた。

大浦村
おおうらむら

[現在地名]羽島市正木町大浦まさきちようおおうら正木町上大浦まさきちようかみおおうら正木町大浦新田まさきちようおおうらしんでん

曲利まがり村の東を主村域とし、加納かのう村や他村の新田と錯綜しながら木曾川西岸沿いに北は南及みなみおよび村に至る。大浦輪中内に位置し、美濃路が通る。オオラともよび、大羅と記したものもある。建武元年(一三三四)一二月二〇日、鵜飼うかい(現岐阜市)地頭源(熊谷)家満は、土岐頼貞代官神戸五郎とともに「阿志賀渡」や「大浦市場」での合戦で戦功をあげている(同月二三日「源家満軍忠状」熊谷家文書)。下って天正一二年(一五八四)四月、織田・徳川両軍と対峙した羽柴秀吉は大浦城に伊藤牛介を詰めさせ(四月一二日および二一日の「羽柴秀吉書状写」一柳文書)、二九日には「大羅ノ寺内戸島東蔵房カ」を砦とし、秀勝を置いた。

大浦村
うぷらむら

[現在地名]名護市大浦おおうら二見ふたみ大川おおかわ

久志くし間切の中央部西寄りに位置し、大浦おおうら湾に面する。南西は辺野古ひぬく村。集落は多野たの(三八五・二メートル)を水源とする大浦おおうら川が下流左岸に造った沖積低地に立地する。河口にはマングローブ林が広がる。初め名護なぐ間切所属であったが、康熙一二年(一六七三)に久志間切所属となる(「球陽」尚貞王五年条など)正保国絵図に名護間切「おほら村」、「なこ間切大道ヨリおほら村大道迄一里廿三町四十間」と記される。絵図郷村帳でも村名は同じ。琉球国高究帳では同間切「おほら村・せたけ村」と併記され、高頭一六八石余、うち田一四九石余(うち永代荒地六六石余)・畠一九石余。

大浦村
おおうらむら

[現在地名]中島町大浦

忽那くつな(現中島)の東海岸の湾頭にあり、小浜おばまの北に位置する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)風早かざはや郡の項に「大浦村 日損所、芝山有」とみえ、村高四八五石八斗九升八合、うち田三六九石九斗二升三合、畑一一五石九斗七升五合とある。すでに天正一五年(一五八七)検地が実施された際に「御検地帳 風早郡忽那嶋之内大浦分」の表示があり、近世村落として成立していたものと思われる。

「忽那嶋開発記」によれば応徳元年(一〇八四)藤原親賢が忽那島に流罪となり、在島二〇年の間にこの島の開墾をしたとある。「応徳三四開作田圃、六浦定名謂大浦、長師、神浦、熊田、吉来(吉木)、粟井是也」の記載から「伊予国風早郡地誌」も大浦の開拓を応徳三年としている。

大浦村
おおうらむら

[現在地名]上北町大浦

東流する七戸しちのへ川の右岸に位置し、北東で川去かわさり川が同川に合流する。南西は新館にいだて村、北東は上野うわの村、北は七戸川、南は大沢田おおさわだ(現十和田市)に接する。

正保四年(一六四七)の南部領内総絵図に大浦村一五八石余とあり、同年の郷村帳では一五八・七一七石余のうち一二四・〇一九石が田である。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」によれば高五七三・五石余、郡分郷村高書上として二四九・三石余と一〇六・七石余があり、ほかに給分一二・八石余があった。

大浦村
おおうらむら

[現在地名]滑川市大浦など

早月はやつき川が形成した新扇状地の扇頂部よりやや下流域に位置し、西は大崎野おおさきの村。村名の由来は能登国の人が移住して開発を行い、元の地名にちなんで大浦村と名付けたと伝える(東加積村誌)。天保郷帳に「古者 大浦村・大崎野村弐ケ村」と注記される。正保郷帳では高三六三石余、田方二三町九反余・畑方三反余、新田高二八石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高四四二石、免五ツ四歩、万治二年(一六五九)の新田高二石、小物成は山役一〇六匁・鮎川役八匁(三箇国高物成帳)。所属組は平塚ひらつか村と同じ。享保一八年(一七三三)の新川郡村廻帳(川合家文書)には元禄四年(一六九一)と正徳元年(一七一一)の計三二石の畑新開と享保九年の七石余の田方新開が記され、村肝煎は徳右衛門、家数五一(百姓三七・頭振一四)、ほかに浄土真宗東方西光さいこう寺・光念こうねん寺がある。

大浦村
おおうらむら

[現在地名]有明町大浦

東は楠甫くすぼ村、西は須子すじ村に接する。北は有明海に臨み、地形は南方のおい岳から北斜面になっている。建暦二年(一二一二)八月二二日付関東下文案(志岐文書)に「大浦」とみえ、元久二年(一二〇五)志岐光弘が当地を含む天草六ヶ浦の地頭に補任されている。慶長国絵図に村名がみえ、天草・島原の乱では全村民がキリシタンに立帰って一揆に加わった。「国志草稿」は「寛永年中切支丹一揆擾乱ノ節大浦ノ者共ハ山奥教良木ヘ隠住ノヨシ」と記す。乱後栖本組に属し、庄屋小崎家は同組の大庄屋を兼帯した。

大浦村
おおうらむら

[現在地名]鳴門市北灘町大浦きたなだちようおおうら

粟田あわた村の西にあり、北灘八ヵ村のうち。北は播磨灘に面し、中央部をほぼ北に大浦川が流れ、沿岸部でわずかに平野が開ける。海岸伝いに東の粟田村から西の宿毛谷すくもだに村に至る北灘道が通り、大浦谷をさかのぼり板東ばんどう村に出る道もある。正保国絵図には大浦村とみえ、高二四石余、新田とある。寛文四年(一六六四)の在々古田出目并新田高帳でも新田として村名があげられ、枝村として宿毛谷村が記される。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では三四石余が蔵入高。

大浦村
おおらむら

[現在地名]本荘市内越うてつ 大浦

南流するいも川右岸の平野部にあり、西北に烏森からすもり山がある。北は内黒瀬うちくろせ村・親川おやかわ村、東は芋川を挟んで畑谷はたや村・川口かわぐち村、南は石脇いしわき村と接する。

慶長一七年(一六一二)の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)に内越郷に属すとあり、近世は亀田藩領に属していた。正保三年(一六四六)の出羽国油利郡内高目録(秋田県庁蔵)によれば三〇〇石七斗八升八合で、そのうち畑一三石余、田二八七石余とあり、元禄一五年(一七〇二)には三四三石九斗四升七合と増えている(出羽国由理郡郷村高辻帳)

大浦村
おおらむら

[現在地名]相川町大浦

南は高瀬たこせ村、北は鹿伏かぶせ村、前面は海。現在は六五町余の耕地のうち水田が九割を占める。集落は、北側から通称清吉きよよし川・てらの川・かみの川・田町たまち川の江川または小河川が流れ、川に沿って五つの地区に分れる。中心となる重立衆は吉郎兵衛・新左衛門・五郎左衛門・惣太夫の各家で、ほぼ同族集団をなす(佐渡相川の歴史)。現在は渡部・中川の姓が多い。応永一四年(一四〇七)七月二日の本間氏とみられる左衛門尉詮忠譲状(山田本間文書)によると、本間有泰に大浦郷などが譲られている。

大浦村
おおうらむら

[現在地名]小木町大浦

井坪いつぼ村の西、西に木流こながせ村が続く。元禄七年(一六九四)の検地帳(大浦区有)では田四町二反余・畑七町九反余。屋敷持は一三筆で海岸沿いの地字浜通り・ちわりに集中する。享保五年(一七二〇)の田畑水帳(同区有)によると、元禄の検地において地字大川内・鯖ヶ谷・よしヶ谷の耕地は井坪村へ飛地としてあり、当村百姓四人が所持し、年貢・諸役を両村で勤めていたが、この年当村へ戻されている。

大浦村
おおうらむら

[現在地名]八日市場市大浦・ほりうち

山桑やまくわ村の北西に位置する。中世は匝瑳南条そうさなんじよう庄に属し、在地領主は千葉氏族の椎名氏。神代本千葉系図は長岡系椎名氏の一流に大浦氏を載せ、長岡胤直の孫に大浦又太郎・同六郎二郎・同六郎三郎をあげている。字城あざしろ大浦城跡宮和田みやわだには宮和田城跡があり、それぞれ土塁・空堀で囲まれた単郭方形の遺構が残る。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高六八五石、旗本池田領。

大浦村
おおうらむら

[現在地名]太良町大字大浦字中畑なかばたけ広江ひろえ野上のあげさと亀之浦かめのうら一帯

現太良町の南東部、有明海沿いの村。慶長絵図に「大浦 浜ノ内」とある。万延元年(一八六〇)改の郷村帳には大浦村の中に「中畑・里・み禰・野上・道下・広江・亀浦・たりかと」があると書かれ、亀浦村も含まれている。この付近は多良たら岳の舌状台地が有明海まで迫っており、その起伏した谷間を利用して集落ができていて農漁民が多い。

里集落には、建御名方命・八坂日売命を祀る諏訪すわ神社がある。旧村社。応永四年(一三九七)に信州の諏訪神社の分霊を勧請したと伝え、永正年間(一五〇四―二一)諫早いさはや(現長崎県諫早市)の西郷石見守宗雪が社殿を再興。天正年間(一五七三―九二)に諫早家の領地となると当社を崇敬する者が多くなった。

大浦村
おおうらむら

[現在地名]前原市大浦・美咲みさきおか二丁目・南風台みなかぜだい二―八丁目

荻浦おぎのうら村の南、丘陵南麓に位置する小村。南は怡土いと多久たく村。天正一九年(一五九一)三月二三日の志摩郡惣田数付(朱雀家文書)によれば田七町九段余・畠四町二段余。小早川時代の指出前之帳では田八町四反余(分米八九石余)・畠四町六反余(分大豆一八石余)。慶長三年(一五九八)分の志摩郡物成帳(朱雀家文書)では高一〇八石余、物成八三石余(うち大豆一五石余)

大浦村
おおうらむら

[現在地名]室戸市羽根はね中山なかやま

羽根村の北西端、羽根岬の上段に開かれた新田村で、元禄地払帳に初めて大浦村新田八〇石が記され貢物地とある。羽根坂あるいは中山越とよばれた室戸岬への街道は村の北東側を通るが、現在集落はない。

江戸時代この地は留山とされ遠見番所も置かれていたが、元禄七年(一六九四)奈半利なはり(現安芸郡奈半利町)の助五郎が崖下の大浦浜を網代として新浦を開く許可を得た。

大浦村
おおうらむら

[現在地名]大石田町大浦

駒籠こまごめ村の最上川対岸に位置する。元和八年(一六二二)最上氏改易後は山形藩領、寛永一三年(一六三六)幕府領となる。正保郷帳では田高二一六石余・畑高一七石余。宝暦七年(一七五七)五月の最上川洪水で「家九軒流失仕、勿論田畑共川欠砂置等ニ罷成」り、総人数二四八のうち一六六人が夫食拝借を願った(「諸願書覚留帳」工藤文書)。同一一年の御巡見様御案内覚帳(二藤部文書)によると高三〇一石余・反別三一町四反余、家数三六・人数一九二、馬七、御囲籾一四石。

大浦村
おおうらむら

[現在地名]鹿央町大浦

国見くにみ(三八八・八メートル)北山麓に位置し、東は梅木谷うめのきだに村、北は姫井ひめい村、西は中浦ちゆうのうら村に接する。寛文九年(一六六九)の「一統志」に「大浦 山神」とある。近世は山本やまもと郡正院手永に属する。「国誌」に「高二百六十六石余大良村後村谷村等ノ小村アリ」と記す。文政九年(一八二六)の正院手永手鑑によれば田一〇町二反六畝余・畑九町二反五畝余。

大浦村
おおうらむら

[現在地名]小出町大浦・大浦新田

三用みよう川が魚野うおの川に合流する付近にある。南は十日町とおかまち村、北は虫野むしの村。南東に向かって城内谷じようないだにの各集落に通じる道が延びる。正保国絵図に村名がみえ、高一七〇石余。天和三年郷帳では浦佐組に属し、高一一一石余、ほかに同所新田高一八石三斗余がある。

大浦村
おおうらむら

[現在地名]郷ノ浦町大浦触おおうらふれ

半城はんせい村の北に位置し、深い入江(半城湾)に臨む。北は長嶺ながみね村。正平二四年(一三六九)の壱岐神領図(壱岐史拾遺)では国分こくぶ天満宮(現芦辺町)の神領六四町のうちとして大浦村とみえる。正保国絵図に村名がみえ、高二五七石余。

大浦村
おおうらむら

[現在地名]蒲刈町大浦

上蒲刈かみかまがり島の東部に東北から西南方に延びる地溝部に位置し、近世には行政的には蒲刈島に含まれたが、庄屋が置かれていた。宝永二年(一七〇五)の役家数は三四で、上蒲刈島のうちでは最も多い(宝永二年年貢割付雛形覚「芸南蒲刈島誌」所収)

大浦村
おおうらむら

[現在地名]肥前町大字大浦

伊万里湾に面する村で、村内の丘陵は、海に突出して突浦つくうらとなり、その傾斜は海に入りこんで大浦湾をかたちづくる。

有浦家文書の康永元年(一三四二)の源(佐志)勤から四男彦隈丸への譲状に「肥前国松浦西郷佐志村内大浦、中浦」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

靡き

1 なびくこと。なびくぐあい。2 指物さしものの一。さおの先端を細く作って風にしなうようにしたもの。...

靡きの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android