万屋町(読み)よろずやちよう

日本歴史地名大系 「万屋町」の解説

万屋町
よろずやちよう

[現在地名]中区丸の内まるのうち一―二丁目

魚の棚うおのたな筋南の東西道路すぎの町筋にある。御園みその町筋と本町筋との間、一説には長者ちようじや町筋との間の五丁をさす(金鱗九十九之塵、町名起因並町家由緒)。慶長一七年(一六一二)清須きよすよりの移転とも聞く(蓬左遷府記稿)が、これは杉の町筋自体が長く、成立事情が東部と西部とで異なる点に気付かない誤解。くるまノ町の一丁目いつちようめ町に対し、二丁目にちようめ町とよばれた事実からみて、同町は車ノ町同様、清須越しでない(尾張志)。築城前は郭内三の丸さんのまる天王てんのう坊の南に存したが、のちに当地へ移り、寛文元年(一六六一)松屋まつや町となる。

万屋町
よろずやまち

[現在地名]長崎市万屋町・鍛冶屋町かじやまち浜町はままち

榎津えのきづ町の南西中島なかしま川左岸にある長崎そと町の一ヵ町で、船手に属した。町並はほぼ南北に形成され、西手と南部に堀がある。延宝六年(一六七八)本鍛冶屋もとかじや町が万屋町と改称して成立。貞享四年(一六八七)当町の次郎右衛門らが沖抜荷を行ったとして西坂にしざかで獄門に処された(犯科帳)。元禄二年(一六八九)改の間数二八四間三尺余で、六七箇所のうち三箇所が諸役御免(長崎拾芥)。正徳町絵図では両側町で、本町の長さ一六五間一尺余、小路で六つに区画される。文化五年(一八〇八)の長崎市中明細帳では町の縦の長さ一六五間一尺余・幅平均三間余で坪数三千九四七坪余(地子銀一貫一五八匁)・加造地九一坪余(同一四四匁八分余)、箇所数六九、竈数二四五・人家二九一、人別六六六、酒造高二五石・醤油酢造高二二石、小石橋一・石橋一、持船一。

万屋町
よろずやまち

[現在地名]大分市大手町おおてまち一―二丁目

えびす町の東に延びる町で、同町との境から北に中横なかよこ町があり、東は大分川に通じる船入を挟んで塩九升しよくじよう町。慶長府内絵図に町名がみえ、北頬五〇間・南頬五〇間、南北の入一五間。鎮守は蛭子祠(雉城雑誌)。当町から胡町にかけて豪商守田三弥之助(山弥)屋敷があった。三弥之助は屋号を万屋といい銀山経営などで財をなしたが、正保四年(一六四七)藩主日根野氏により父子四人が堀切ほりきり峠で処刑されたという(豊国紀行・雉城雑誌)

万屋町
よろずやちよう

下京区河原町通上珠数屋町下ル

南北に通る河原町かわらまち通に西面する片側町。町の北寄りを正面しようめん(旧七条坊門小路)が東へ通る。西側は渉成園しようせいえん

平安京の条坊では左京七条四坊三保一四町西側と一五町西南の地。平安中期以降は七条坊門万里小路にあたる。

町の形成は溜池ためいけ町に同じ。町名の初見は、承応二年(一六五三)新改洛陽並洛外之図で、「よろづや丁」と記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報