ルイ14世(読み)ルイじゅうよんせい(英語表記)Louis XIV, le Grand Monarque; le Roi-Soleil

改訂新版 世界大百科事典 「ルイ14世」の意味・わかりやすい解説

ルイ[14世]
Louis ⅩⅣ
生没年:1638-1715

フランス絶対王政最盛期の国王。在位1643-1715年。〈太陽王〉とも呼ばれる。ルイ13世とアンヌ・ドートリシュの子。4歳で王位に就いたため母后が摂政となり,マザラン枢機卿が宰相として実権を握った。リシュリューの後を継いで王権の強化をはかったマザラン時代には,これに反発してフロンドの乱(1648-53)が起こり,幼い国王も何度かパリを追われた。1660年スペイン国王フェリペ4世の長女マリア・テレサと結婚。マザランが没した翌61年から親政を開始した。〈朕は国家なり〉という彼の言葉が示すように,ルイ14世は国務に関するすべての決定を自ら行おうと努め,同時に手足となる官僚機構の整備に力を注いだ。中央では宰相制を廃止,国王自ら臨席する最高国務会議の権限を強化し,地方では,国王の直轄官僚である〈地方長官(アンタンダン)〉の制度を確立した。この結果,貴族の政治権力は大幅に削減され,チュレンヌやコンデ親王といった名門貴族さえも政治の中心から遠ざけられた。マザラン時代からの財務卿フーケも,その財力が災いして汚職のかどで逮捕された。また,フロンドの乱の経験からパリを嫌っていた国王は,82年宮廷を新たに造営したベルサイユ宮殿に移したが,以後政治の中心となったこの宮殿では,ラ・バリエール,モンテスパン,マントノンなどの愛妾ばかりでなく,宮廷貴族と化した大貴族たちも国王の恩寵を競った。官僚機構とともに絶対王政を支える柱であった常備軍に関しては,〈民兵〉制の導入(1688)などの兵制改革が,コルベール一族と並んで国王に重く用いられたル・テリエ,ルーボア父子によって進められた。ルイ14世の絶対主義は宗教政策にも及び,王国の信仰の統一という立場から,ナントの王令を廃止(1685)して新教徒を迫害,これに対して立ち上がったカミザールの乱(1702-14)を鎮圧した。また,ジャンセニストに対しても厳しい弾圧を加えた。経済政策は,財務総監コルベールによって行われた重商主義によって特徴づけられ,一方でイギリス,オランダからの輸入を高関税により抑制し,他方,宣誓手工業制jurandeや特権マニュファクチュールの創設を通じ国家主導の下に国内産業を育成しようとした。こうした貿易面での覇権争いは対外戦争を引き起こし,ルイ14世はフランドル戦争オランダ戦争ファルツ戦争,スペイン継承戦争といった侵略戦争を強行した。しかし,その結果は,領土こそ若干を加えたものの,工業力に勝るイギリスの優位を認めざるをえなかった。しかも,戦時経済の長期化は租税増徴を招き,ブルターニュの印紙税一揆(1675)など反王税一揆が各地に頻発,財政状態も83年のコルベール没後急速に悪化した。こうして,治世も末年になると,さしもの太陽王の威光にもかげりが見え始めた。彼が1715年に没したときには,王太子も孫のブルゴーニュ公もすでに世を去っていたため,曾孫がルイ15世として王位を継承した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ルイ14世」の意味・わかりやすい解説

ルイ14世
ルイじゅうよんせい
Louis XIV, le Grand Monarque; le Roi-Soleil

[生]1638.9.5. サンジェルマンアンレ
[没]1715.9.1. ベルサイユ
フランス王 (在位 1643~1715) 。ブルボン朝の最盛期を築き「大王」また「太陽王」と呼ばれた。ルイ 13世とアンヌ・ドートリッシュの長男。5歳で父王に死別し即位。幼少時,摂政である母后と J.マザランが国政を担当したが,フロンドの乱 (1648~53) が起り,王はパリを脱出し各地を転々とした。 1661年マザランの死後,親政を宣言した。初期,J.コルベールを起用して集権的官僚体制を整備し産業保護政策を推進すると同時に,ル・テリエ,ルーボア父子を重用し軍事力を強化して,ヨーロッパ大陸制圧政策を強行した。まず,60年ピレネー条約により政略結婚したスペイン王女マリ・テレーズの「王妃の権利」を利用してフランドル戦争 (67~68) を開始,次いでオランダ戦争 (72~78) を起し,王の威光は全ヨーロッパに及んだ。 82年新築のベルサイユ宮殿に移り,ラ・バリエール,モンテスパン侯夫人,最後にマントノン夫人と寵愛の相手を変えながらも宮廷の秩序と規律を築き,「最大のキリスト教徒の王」を自負した。しかし,85年「ナントの勅令」の廃止 (→フォンテンブロー勅令 ) を宣言してプロテスタント弾圧を再開すると,諸国の反撃が開始されファルツ戦争 (89~97) を引起し,国内ではプロテスタントの反抗,カミザール戦争が展開し,王の威光は落日へ向った。晩年,スペインの王位と領土をめぐりスペイン継承戦争 (1701~14) を起したが,戦いは泥沼化し,最後にユトレヒト条約で王孫フィリップがフェリペ5世としてスペイン王に認められた。

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デジタル大辞泉プラス 「ルイ14世」の解説

ルイ14世

ドイツの筆記具ブランド、モンブランの万年筆の商品名。「パトロンシリーズ」。フランス国王、ルイ14世をイメージ。

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367日誕生日大事典 「ルイ14世」の解説

ルイ14世

生年月日:1638年9月5日
フランス国王(在位1643〜1715)
1715年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のルイ14世の言及

【オランダ戦争】より

…フランスのルイ14世が1672‐78年にオランダを侵略した戦争。ネーデルラント戦争ともいう。…

【宮廷】より

…強力な王権を前にしては,有力貴族も高位聖職者も,競って宮廷に馳せ参じ国王の恩恵にあずからざるをえない。ルイ14世によるベルサイユ宮殿の建造は,まさにこの新しい時代を象徴するものであった。ルイ14世は1682年ベルサイユに移り住むが,その盛時には1000人を超す宮廷貴族や高位聖職者が,この広大な宮殿に居室を与えられ,その従者の数は4000人に及んだという。…

【スペイン継承戦争】より

…スペインにおけるハプスブルク朝(ハプスブルク家)の断絶にともない,その王位と領土の継承をめぐって,フランスとイギリス,オランダ,オーストリアなど対仏連合諸国との間で行われた戦争(1701‐14)。1700年の秋に病身で嗣子のないカルロス2世が没すると,遺言によりスペインの全領土は,フランス王ルイ14世(第1王妃がスペイン王女であった)の孫フィリップ(フェリペ5世)に譲られた。オーストリア・ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝レオポルド1世(在位1657‐1705)はこれを認めず,直ちにフランスと国交断絶したが,この遺贈にはフィリップがフランス王位への要求権をいっさい放棄するという条件がついていたので,かねがねスペイン領土の継承に関心をもっていたイギリスとオランダは,当面これを黙認する態度をとった。…

【パリ】より

…この子孫のユーグ・カペーが987年に聖俗貴族の集会で推挙されてカペー王朝が成立すると,パリは新しい発展の段階を迎える。
【中世】

[ルーブル宮とパリ大学の創建]
 カペー朝のルイ6世(在位1108‐37)の頃より,パリは国王の恒常的な居住地となった。農村共同体の出現によって農業生産は飛躍的に上昇するとともに,それを基盤として封建諸侯が出現し,国王は封建諸侯の推挙によってその頂点に立った。…

【フランドル戦争】より

…フランスのルイ14世が1667‐68年,領有権を主張してスペイン領南ネーデルラント(フランドル。現在のベルギーおよび北フランスの一部)を侵略した戦争。…

【ブルボン朝】より

…アンリ4世はナントの王令によって宗教戦争に終止符を打ち,王国の統一を回復,王朝の基礎を築いた。次いで,ルイ13世時代のリシュリュー,ルイ14世未成年時代のマザランの2人の大宰相によって国王権力が確立された。三部会は1614年を最後に召集されなくなり,貴族の抵抗もフロンドの乱を最後としてついえた。…

【ベッド】より

…17世紀中ごろからベッドの天蓋やカーテンに豪華なタピスリーが採用され,ベッドの美しさの重点は木製部材から織物へと移った。 ルイ14世のベルサイユ宮殿では,国王が議会に出席するときには〈正義の寝台lit de justice〉に着座し,諸侯は腰掛に座り,高級官僚は直立し,下級官僚はひざまずくというように,公の席では社会的地位に応じて座姿勢に格差がつけられた。また,謁見の間には〈謁見のベッド〉が設置され,全体はゴブラン織で装飾された。…

※「ルイ14世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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