ピツェッティ

百科事典マイペディア 「ピツェッティ」の意味・わかりやすい解説

ピツェッティ

イタリアの作曲家。ピッツェッティともいう。生地のパルマ音楽院で作曲を修め,卒業後の1902年−1904年同地の劇場の副指揮として活動。1908年フィレンツェのケルビーニ音楽院教授に就任し,1917年院長。以後ミラノ音楽院院長,ローマサンタ・チェチーリア音楽アカデミー院長などを歴任レスピーギマリピエロカセラとともに20世紀前半のイタリア作曲界を主導した。古代ギリシア芸術を範とする古典主義の立場を終生保ち,独自の朗唱風旋律法を用いた劇音楽・声楽曲をはじめ気品に満ちた多くの名作を残している。代表作に,ダンヌンツィオ台本によるオペラ《フェードラ》(1912年),《バイオリンソナタ》(1918年−1919年),合唱曲レクイエム》(1922年),管弦楽曲《夏の協奏曲》(1928年)などがある。
→関連項目カステルヌオーボ・テデスコ

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ピツェッティ」の意味・わかりやすい解説

ピツェッティ
ぴつぇってぃ
Ildebrando Pizzeti
(1880―1968)

イタリアの作曲家。生地パルマの音楽院で学んだ(1895~1901)のち、パルマのレージオ劇場の副指揮者(1902~04)を経て、母校(1907)、フィレンツェ音楽院(1908~24、17~24院長)、ミラノ音楽院(1924~36院長)、ローマのサンタ・チェチーリア音楽院(1936~58、48~51院長)で後進の指導にあたった。基本的にメロディ重点を置く彼の音楽は、ギリシア芸術への関心と相まって、『フェドラ』(1915初演。ダンヌンツィオ台本)、『デボラとヤエーレ』(1922初演)などのオペラや、合唱曲、歌曲本領を発揮した。

[寺田由美子]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ピツェッティ」の意味・わかりやすい解説

ピツェッティ
Pizzetti, Ildebrando

[生]1880.9.20. パルマ
[没]1968.2.13. ローマ
イタリアの作曲家。パルマ音楽院でグレゴリオ聖歌ギリシア音楽を研究。 1907年母校の作曲教授,08年フィレンツェ音楽院教授を経て,17年同院院長,24年ミラノ音楽院院長,のちローマのサンタ・チェチリア音楽院院長。代表作,管弦楽曲『エディプス王』 (1904) ,オペラ『フェードラ』 (09~12) ,『デボラとヤエーレ』 (15~21) ,バイオリン・ソナタ (18~19) ,合唱曲『2つのカンツォーニ・コラーリ』 (13) ,『レクイエム』 (22) 。

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