出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
イギリスの小説家,詩人。イングランド南西部,通常ウェセックス地方と呼ばれるドーセット州ドーチェスター市の近くで生まれた。父は建築家,母は文学の素養のある婦人だった。若いころは父の職業を継ぐべく建築の勉強にはげみ,1862年ロンドンに出て,建築懸賞論文で賞を得るなど,その才能をあらわした。しかしロンドンの生活を嫌ったために,建築界での出世をあきらめて故郷に帰り,文学を一生の仕事にしようと決意した。68年匿名で《貧民と貴婦人》という長編小説を書き,ロンドンの出版社に送ったところ,当時文壇で重きをなしていたG.メレディスの目にとまった。メレディスはこの小説があまりに過激な社会思想に色づけられ,出版社から排斥されるから,もっと筋立てのおもしろさをねらった作品を書いたほうがよい,とハーディに忠告した。この忠告に従って次作《非常手段》を書き,出版社に受け入れられ71年処女作として公刊された。
以後ハーディの長編小説が次々に発表され,好評をもって迎えられた。《緑の木陰》(1872),《狂乱の群れを離れて》(1874),《帰郷》(1878)などが初期の代表作である。《カスターブリッジの市長》(1886),《テス》(1891),《日陰者ジュード》(1896)など後期の代表作では,小説のプロットの組立てがますます精緻巧妙になり,建築家としての才能が構成に発揮されている。しかし,彼の小説の特徴は単にその構成の巧みさのみにあるのではない。彼はショーペンハウアーの悲観主義哲学に共感し,人間の自由意志を超えた宇宙意志の存在を信じ,運命の力によって人間が翻弄される悲劇,つまりギリシア古典悲劇と同じ主題を小説の形で表現した。同時に作品の中で既存の道徳・宗教に鋭い批判を加え,結婚制度の否定や新しい男女の性関係まで大胆に扱ったため,保守的な読者からの抗議が相次ぎ,《日陰者ジュード》以後長編小説の執筆を断念してしまった。
しかし,これでハーディの文学者としての生命が絶たれたわけではない。以後は短編小説,ナポレオンを扱った詩劇《覇王》全3部(1903-08),数多くの抒情詩を発表し,詩人としても高い評価を受けた。1910年には国から勲章を授けられ,80歳の誕生日には全文壇から祝辞が寄せられた。このように国家的名士となっても,彼はロンドンに移住することを拒み続け,生れ故郷ウェセックス地方にとどまった。のみならず,彼のすべての作品はウェセックス地方を舞台とし,現実の地名を架空の地名に書き改めたウェセックス地方の地図が,彼の文学によって形成された。彼の作品の主人公は人間ではなく,彼の愛する土地の霊であった。死後,遺体はロンドンのウェストミンスター・アベーに葬られたが,彼の心臓は遺言により故郷に埋められた。日本でもハーディの愛読者は多く,〈日本ハーディ協会〉がある。
執筆者:小池 滋
イギリスの数学者。サリー州,クランリーに生まれ,ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジを卒業後特別研究生を経て1906年同校講師となる。19年オックスフォード大学に移り,幾何学教授の席につくが,31年にケンブリッジ大学に戻り,42年に引退するまで教授の地位にあった。この間1910年ローヤル・ソサエティ会員に選ばれ,20年にはローヤル・メダル,40年にはシルベスター賞を受賞,死の年には最高の名誉であるコプリー賞を受けた。解析的整数論を専門とし,よく知られている業績の一つに,リーマンの予想〈ζ関数の実でない零点はすべて実数部=1/2である〉に関連して,実際そのような零点が無限個存在するのをはじめて証明したことがある。発表した論文は300を超え,彼自身当代のイギリスを代表する,また世界的指導者に数えられる数学者であったが,J.E.リトルウッドやS.ラマヌジャンとの共同研究も熱心に行った。とくに後者については無名のインド人素人数学者の天才を見抜き,世に紹介するとともに短い年月の間に少数ではあるが第1級の論文をともに著すという劇的,感動的な挿話が名高い。専門的な著述のほかに,純粋数学の価値を弁じた評論的作品《一数学者の弁明》(1940)がある。
執筆者:柳生 孝昭
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
1856~1915
イギリスの政治家。スコットランドの炭鉱労働者の出身。炭鉱夫の組合を結成して,1892年初めての労働者出身の下院議員となり,翌年スコットランド労働党をもとに独立労働党を結成して党首となる。労働代表委員会の設立に貢献して労働党の成立をたすけ,1906年その初代党首となる。第一次世界大戦には徹底して反対し,平和主義者としての生涯を貫いた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…しかし,いずれも大衆的な支持を受けなかった。一方,J.K.ハーディが独立労働党を結成して労働組合との提携をはかり,1900年,労働組合と社会主義団体の連合体として労働代表委員会が創設された。これは労働者階級の代表者を議会に送るための組織であったが,1906年には名称を改めて労働党となった。…
…不熟練労働者の組合活動に触発され,労働教会など地方の社会主義運動を結集し,1893年ブラッドフォードで結成された。ケア・ハーディらの指導下に労働組合と社会主義伝道とを結ぶ改良主義的議会政党たらんとしたが,激しい資本家攻勢のもと,より大きく組合に依存する別個の労働党を発足させた。労働党内において,第1次大戦中反戦の立場を貫き,反戦自由主義者の労働党参加への道を開いた。…
…遺伝子の自然および人為突然変異の研究はこの問題に大きな手がかりを与え,遺伝学が進化機構の解明に深くかかわることとなった。すでに1908年にハーディG.H.HardyとワインベルクW.Weinbergは安定した任意交配集団における遺伝子頻度と遺伝子型頻度の関係について,〈ハーディ=ワインベルクの法則〉とよばれる法則を発見していたが,30年代に入り統計学の進歩と相まって,淘汰・突然変異・繁殖様式・集団構造などを考慮に入れて集団の遺伝的構成の経時的変動を研究する集団遺伝学の基礎がR.A.フィッシャー,J.B.S.ホールデーン,ライトS.Wrightなどによって築かれた。最近は遺伝子やその支配形質の違いを分子レベル,すなわちDNAの塩基配列やタンパク質の一次構造の差異としてとらえ,その集団における挙動が盛んに研究されている。…
…遺伝子の自然および人為突然変異の研究はこの問題に大きな手がかりを与え,遺伝学が進化機構の解明に深くかかわることとなった。すでに1908年にハーディG.H.HardyとワインベルクW.Weinbergは安定した任意交配集団における遺伝子頻度と遺伝子型頻度の関係について,〈ハーディ=ワインベルクの法則〉とよばれる法則を発見していたが,30年代に入り統計学の進歩と相まって,淘汰・突然変異・繁殖様式・集団構造などを考慮に入れて集団の遺伝的構成の経時的変動を研究する集団遺伝学の基礎がR.A.フィッシャー,J.B.S.ホールデーン,ライトS.Wrightなどによって築かれた。最近は遺伝子やその支配形質の違いを分子レベル,すなわちDNAの塩基配列やタンパク質の一次構造の差異としてとらえ,その集団における挙動が盛んに研究されている。…
…イギリスの作家T.ハーディの小説。1891年出版。…
…1086年の《ドゥームズデー・ブック》によれば王立都市とされるものの,中世以降は農村中心の地位にとどまった。この近くで生まれ,〈ウェセックス小説〉の中でこの地をキャスターブリッジと呼んだT.ハーディの銅像や記念博物館が市内にある。【長谷川 孝治】。…
※「ハーディ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
4/12 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
4/12 デジタル大辞泉を更新
4/12 デジタル大辞泉プラスを更新
3/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
2/13 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新