ジャム(ロック・グループ)(読み)じゃむ(英語表記)Jam

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

ジャム(ロック・グループ)
じゃむ
Jam

イギリスのロック・グループ。1970年代後半から80年代初めにかけて高い人気を誇った。同時代のパンクと同様に60年代のモッズロンドン若者に流行したファッション・音楽スタイル。名前はモダンズ(moderns)からきている)文化から多くのインスピレーションを得て、レコード・デビューからの5年間に18曲ものヒットを放った。

 1973年にサリー県で、ポール・ウェラーPaul Weller(1958― 、ボーカルギター)とリック・バックラーRick Buckler(1955― 、ドラム)がバンドを結成。75年にブルース・フォクストンBruce Foxton(1955― 、ベース)を加えて、ジャムとなる。当時ウェラーはまだ17歳だった。76年なかばにはロンドン市内のクラブにも出演するようになり、熱心なファンを獲得していく。

 77年にポリドールと契約し、シングル「イン・ザ・シティ」と同名のアルバムでデビューする。彼らは60年代なかばのモッズ・グループ、フーやスモール・フェイセスに強い影響を受けており、彼らから大音量で荒削りな演奏、アメリカのリズム・アンド・ブルースへの志向、スタイリッシュなファッションなどの特徴を受け継いでいた。同年2作目『ザ・モダン・ワールド』を発表し、人気が急上昇する。そんな彼らに刺激されて、モッズのサウンドとファッションを取り入れた若いバンドがイギリス各地で生まれるモッズ・リバイバルが起こった。

 ジャムの活動の転機となった作品が78年後半に発表された3作目のアルバム『オール・モッド・コンズ』である。ウェラーの自作曲は音楽的な幅の広がりを見せる一方で、歌詞は辛辣さを増し、社会批評性を強めていた。このアルバムからは「オール・アラウンド・ザ・ワールド」や反人種差別を歌った「ダウン・イン・ザ・チューブ・ステイション・アット・ミッドナイト」などがヒットした。79年のコンセプト・アルバム風の『セッティング・サンズ』では、ウェラーの社会問題への意識がますます鋭いものになっていたが、若者の失業率が上昇していた時期にその歌詞は実に時宜を得たものだった。

 そして、80年の『サウンド・アフェクツ』からは「ゴーイング・アンダーグラウンド」と「スタート」の2曲の全英ナンバー・ワン・ヒットが生まれ、3人が音楽雑誌の人気投票の各部門を独占するほどの人気となった。ただしアメリカでは、カルト的な人気以上の知名度を得られなかった。82年にもアルバム『ザ・ギフト』、モータウン風のシングル曲「タウン・コールド・マリス」と「ビート・サレンダー」がいずれも全英第1位に輝いたが、人気も創造性も頂点にあった同年、ウェラーはジャムの解散を発表し、ファンに大きな衝撃を与えた。

 ウェラーはキーボード奏者のミック・タルボットMick Talbot(1958― )とスタイル・カウンシルを結成、ジャムよりもさらにソウル・ミュージックを追求した作品を発表する。83年に「スピーク・ライク・ア・チャイルド」と「ロング・ホット・サマー」がヒット。84年にはクール・ジャズ的アプローチも取り入れたアルバム『カフェ・ブリュ』を発表し、「マイ・エバー・チェンジング・ムーズ」をヒットさせた。

 スタイル・カウンシル結成後のウェラーは積極的に政治的な運動とかかわり合うようになり、左翼勢力のためのイベントにも出演し、87年の総選挙の際にはイギリスのシンガー・ソングライター、ビリー・ブラッグBilly Bragg(1957― )らとともに労働党を支援する「レッド・ウェッジ」を組織してツアーを先導した。

 89年のスタイル・カウンシル解散後、ウェラーはソロ活動を開始。一時期低迷していたが、94年の『ワイルド・ウッド』の大ヒットで第一線に復帰。その後はブリット・ポップ(90年代なかばのイギリスのロック界を席巻したムーブメント。60年代音楽の影響の濃いサウンドとイギリス人らしさを強調した個性をもつグループが次々と登場して高い人気を得た。ブラーとオアシスが代表格)の後見人的存在として、若い世代からも尊敬を集めた。

[五十嵐正]

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