シャフツベリー伯(読み)シャフツベリーはく(英語表記)Anthony Ashley Cooper, 3rd Earl of Shaftesbury

改訂新版 世界大百科事典 「シャフツベリー伯」の意味・わかりやすい解説

シャフツベリー伯 (シャフツベリーはく)
Anthony Ashley Cooper, 3rd Earl of Shaftesbury
生没年:1671-1713

イギリスの道徳哲学者,美学者。ロックの庇護者として知られる政治家シャフツベリー初代伯爵の孫に当たり,幼少のとき,直接この有名な哲学者の教育を家庭で受けた。しかしその感覚論的な認識理論には結局なじまず,病弱な日常にあって家庭教師を通じて体得したすぐれた古典語の才能によって広くギリシアローマの古典に親しみ,長じては大陸旅行その他の度重なる海外滞在を通じて,芸術と哲学に関する深いコスモポリタン的教養を身に付けた。爵位を継いで一時期穏健なホイッグ党上院議員として政治にかかわったが,まもなくイタリアに移りこの地で客死した。彼の学説はそのほとんどが晩年の《諸特徴》(1711)と題する著作にまとめられている。彼はホッブズ流の唯物論と性悪説にもとづく権威主義的道徳観念にも,また宗教への非合理的な熱狂と僧権至上主義にも反発して,美的感覚と道徳の一致するギリシア的な調和,個人と社会の融和を理想とする独自な楽天主義的世界観を作り上げた。人間の心には徳性利己心を両立させる生来傾向が存し,世界の調和を感得する美意識こそわれわれの道徳観念の基礎であると強調し,〈道徳感覚moral sense〉という言葉を初めて哲学的な意味で使用した。その思想ハチソンヒューム,スミスらのイギリス市民哲学やディドロ,ボルテール,ヘルダーらの芸術論宗教論に大きな影響を与えた。
執筆者:

シャフツベリー伯 (シャフツベリーはく)
Anthony Ashley Cooper, 7th Earl of Shaftesbury
生没年:1801-85

19世紀イギリスにおける最も著名で行動的な社会改良家の一人。1851年まではアシュレー卿として知られる。1826年に下院議員となり,保守党に所属,32年の選挙法改正法案に反対したが,46年の穀物法の撤廃には賛成した。1828年から精神病者の取扱いに関する委員会で活躍し,45年の〈精神病者法〉の制定で名をあげる。早くからリチャード・オーストラーやマイクル・サドラーとともに労働時間短縮運動に取り組み,33年,サドラーの後を継いで議会における10時間労働運動のリーダーとなり,47年に〈アシュリー法〉の別名で知られる〈10時間労働法〉を成立させた。他方,彼の〈鉱山規制法〉は女性と13歳未満の少年が炭坑で働くことを禁止した。以上のほか都市労働者の住宅事情の改善,貧しい児童のための貧民学校の設立,労働者や少年を主体とした宗教的奉仕活動の普及など,生涯を博愛主義に生き,社会の改善に捧げた。
執筆者:

シャフツベリー伯 (シャフツベリーはく)
Anthony Ashley Cooper, 1st Earl of Shaftesbury
生没年:1621-83

イギリスの政治家。イングランド西部の旧家に生まれ,1640年庶民院議員。ピューリタン革命の初期には王党派であったが,44年に議会派へ移り,共和制をも支持してその国務会議の議員となった。しかしクロムウェルの死後は王政の復活を工作し,王政復古後は枢密院議員となる。67年からはカバルとよばれた行政府の一員となって,72年には伯爵の位を与えられ大法官という最高の地位についた。しかし73年にその地位を免ぜられるとともに反政府派へまわり,カトリック教徒のヨーク公(のちのジェームズ2世)の王位継承を阻止する運動の中心人物となり,ホイッグ党の創始者ともいわれる。この運動の失敗後,82年にオランダへ亡命し翌年客死した。貿易や植民地開発にも関心をもち,彼が議長となった交易植民委員会はイギリス重商主義政策の原型をつくった。哲学者ロックの庇護者としても有名。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報