爵位
しゃくい
貴族の称号を序列化し、王権または国家権力が承認ないし賦与する特権や栄典の制度。
[渡辺昌美]
爵位は中世の貴族身分の後身だが、伝統や慣習によって社会的に、いわば自然に認められた貴族と異なり、権力によって規定される公的な制度である。また血統の観念との結合がしだいに弱まる傾向を示した。
国王が勅命をもって貴族の身分を賦与した最古の例としては、1270年フランス王フィリップ3世による一財務官の貴族叙任がある。1339年からは貴族身分の審査制度が設けられた。アンリ3世時代、知行地領有だけでは貴族たることを証しえずとし、国王発行の証書を不可欠とした。18世紀強大な王権のもとで、デュクduc(公爵)、マルキmarquis(侯爵)、コントcomte(伯爵)、ビコントvicomte(子爵)、バロンbaron(男爵)、シュバリエchevalier(騎士)、エキュイエécuyer(平貴族)等、旧時の封建領主の称号が段階づけられ、同時に宮廷席次をも示した。プランスprince(大公)は王族に限られた。大革命に際し1790年国民議会によって廃止されたが、ナポレオンによって爵位が制定され、さらに1814年王政復古とともに旧制度が復活され、帝政貴族と王朝貴族とが並存することとなった。ただし政治的法律的特権が爵位に付随することはなくなり、純然たる名誉称号と化した。第三共和政以後は私的に用いられるにすぎない。
ほかの国でもこれに類する消長の経過をたどった。イギリスではバロンbaron(男爵)の下にバロネットbaronet(従男爵)の階等があり、これらはサーSirと称することができる。実質上の特権は完全に消失している。ドイツでも、1848年以後、身分特権は縮小の途をたどり、1871年ドイツ帝国では、フュルストFürst(公爵)、グラーフGraf(伯爵)、フライヘルFreiherr(男爵)に整理された。ワイマール共和国では一代に限って姓名の一部として私的に用いることだけを認めた。事実上の廃止である。
[渡辺昌美]
官位、秩位と並んで、政治的・社会的身分を規定し表現する称号。各級の爵位が天子ないしは皇帝によって授与されることで、天子(皇帝)を最高位に置く国家的身分秩序が構成される。爵とは、本来儀式で用いられる飲酒器の名称であり、爵位の起源は、氏族制の時代に、宴会での席次を決める習俗にあるとされる。爵位には等級に応じた世襲できる封土(ほうど)を伴うことを原則としており、爵制は周代の「封建」制(分封制)の一環として漸次成立したものと考えてよい。周代の爵制は「五等爵」(天子および公・侯・伯・子・男の5等)とよばれるが、不明な点が多く、5等に整理されたのは春秋時代末期から戦国時代初期のころであるといわれる。「封建」制が崩壊に向かう戦国時代には、五等爵とは別個の爵制が秦(しん)国で成立した。これは、軍功をあげた者には身分にかかわらず爵位が与えられるという「軍功爵」から発展したものであり、徹侯(封土を伴う)から公士に至るまで20の等級があったことにより、「二十等爵」とよばれ、秦・漢両王朝を通じて整備され実施された。漢代には20等の上に諸侯王、さらにその上に天子の爵位があり、実質的には二十二等爵制である。諸侯王には王国、徹侯(のち列侯と改称)には食邑(しょくゆう)という封土が賜与(しよ)されたが、一般庶民にも爵位(民爵)が授与されたことが、漢代の爵制の最大の特色であり意義でもある。すなわち第8級の公乗までは一般民に与えられ、第9級の五大夫以上は官吏を対象とし、女子には直接の賜爵はない。受爵者には等級に応じた恩典があり、ここに庶民まで一元的に包括する身分秩序が完成した。魏晋(ぎしん)時代以降には、この民爵の制度は有名無実化し、周の五等爵を応用したところの、皇帝の親族と功臣のみを対象とする爵制が復活し、また王、公、侯、伯、子、男の6等の下に、県、郷(きょう)、亭、関内、関中、関外などの各種の侯が設けられ、亭侯以上には封土・封邑が与えられた。この魏晋の爵制はその後の時代に受け継がれたが、爵位の種類、封土の有無などについては、王朝間で差異がある。
なお、日本では1884年(明治17)7月の華族令により公・侯・伯・子・男の5段階の爵位が設けられ、1947年(昭和22)日本国憲法により廃止された。
[尾形 勇]
『西嶋定生著『中国古代帝国の形成と構造』(1961・東京大学出版会)』
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爵位【しゃくい】
貴族の身分,序列を示す称号。多く世襲で,特権が付随することが多かった。現在も君主国など少数の国に残っているが,ほとんど特権は伴わず,名目だけのものになっている。ドイツではフランク王国のころヘルツォーク(公),ファルツグラーフ(宮廷伯),マルクグラーフ(辺境伯),グラーフ(伯),フライヘル(男)などが成立。神聖ローマ帝国末期にはライヒスフュルスト(帝国直属侯),ライヒスグラーフ(帝国直属伯)が加わり近代にも存続したが,第1次大戦後廃止された。フランスではデュク(公),コント(伯),ビコント(子),バロン(男),シャトラン(城主),ババスール(陪臣),シュバリエ(騎士)などの称号があったが,フランス革命で廃止。のち一時王政復古で復活したこともあるが,特権は回復されなかった。英国では11世紀以来,上級貴族としてデューク(公),マーキス(侯),アール(伯),バイカウント(子),バロン(男)など,下級貴族としてバロネット(従男爵),ナイト(騎士),エスクワイア(郷士)などがある。なお,下級貴族はサーの称号を帯び,上級貴族などに関してロードの称号が用いられる。 中国では周王朝のころ封建諸侯は封土の大小に即して公・侯・伯・子・男の5等爵に分かれていたといわれる。漢代の20等爵にはなお特権が伴っていたが,やがてその意義は失われた。唐朝では文武それぞれ29階の散官号を設けて位階の尊卑を示した。この制は清朝まで伝えられたが,これはいわば宮廷内の席次を示すだけのものになっていた。日本では大和朝廷での姓(かばね)の制は爵位的なものと考えられるし,律令制では冠位十二階などの位階が定められた。近代に入ると明治政府によって栄典制度の根幹をなす位階勲等が定められたが,それに伴う特権は時代とともに失われた。次いで明治維新後,1884年に華族令が制定されて公・侯・伯・子・男の5爵位が定められたが,第2次大戦後,1947年廃止された。
→関連項目勲章
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しゃく‐い ‥ヰ【爵位】
〘名〙
① 朝廷での序列。位階。
※令集解(868)官位「或云。〈略〉凡臣事レ君。尽レ忠積レ功。然後得二爵位一。得二爵位一然後受レ官」
② 古代中国で、諸侯・臣僚の身分。くらい。諸侯に公・侯・伯・子・男の五等、臣僚に卿・大夫・士の三等がある。〔管子‐乗馬〕
③ 明治憲法下で、華族の等級。公・侯・伯・子・男の爵の総称。
④ 広く貴族の身分・階級を示す称号。
※輿地誌略(1826)六「爵位の制は、歇爾多夫(ヘルトフ)兼拝爾(パイル)を上爵とす」
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しゃくい【爵位】
一般に身分的な位階序列を表す貴族の称号を爵位というが,貴族制の存在したヨーロッパ世界と中国,日本でのありようは歴史的に異なる。
[ヨーロッパ]
古代ローマの貴族には,位階序列を表す称号はなく,ヨーロッパの爵位は,中世・近世においてその発達をみることができる。国と時代により差異はあるが,一般に知られている爵位は,公(デュークduke),侯(マーキスmarquis),伯(アールearl),子(バイカウントviscount),男(バロンbaron)の5位階である(かっこ内は英語)。
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普及版 字通
「爵位」の読み・字形・画数・意味
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デジタル大辞泉
「爵位」の意味・読み・例文・類語
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世界大百科事典内の爵位の言及
【華族】より
…当初は10ヵ条だが逐次追加され,1907年に全面改正された(全28条)。華族令は華族を公・侯・伯・子・男の5等の爵位に分けた。公爵は五摂家と徳川旧将軍家のほか維新に勲功のあった公家や旧藩主など11家,侯爵は旧清華家と中山家および15万石以上を原則とし,維新に功のあった旧藩主と旧御三家および大久保・木戸家など24家,伯爵は5万石以上,旧三卿など,子爵は5万石未満の旧藩主と大臣家以下の公家と士族の功臣など,男爵は公家・諸侯の支族分家の特別な者,1868年に諸侯に列せられた者,大社・大寺の神官・僧侶ならびに特別な功臣の子孫などであった。…
【相続】より
…【上野 和男】
【中国】
封爵の相続などの公法的関係による相続という特別の場合と,財産相続などの私法的関係による相続との2通りがある。
[爵位相続]
特別の場合を先に述べておくと,封爵は歴史的変遷はあるが少なくとも漢代以降は栄典であり,法上多少の特典を与えられ,爵位を世襲する。その性格上,単独相続であることはいうまでもない。…
※「爵位」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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