コマンチ(読み)こまんち(英語表記)Comanche

翻訳|Comanche

日本大百科全書(ニッポニカ) 「コマンチ」の意味・わかりやすい解説

コマンチ
こまんち
Comanche

アメリカ合衆国南西部の勇猛果敢な戦士として名をあげた北米平原先住民平原インディアン)。もともとはロッキー山脈東麓(とうろく)のワイオミング地方の狩猟採集民であったが、17世紀に他のショショーニ・グループと分かれて大平原に進出した。しかし平原北部ではスーシャイアンの勢力が強く、コマンチは圧迫されたため、東部コロラドからオクラホマ西部に南下して、18世紀後半にはカイオワと同盟して先住集団のオセージなどと戦い、大平原南部に勢力圏を確立した。そこではバイソン狩りを中心とした狩猟生活を営み、移動が容易なティピ(テント)を住居とした。男性はバイソンのほか、エルクシカ、クマ、アンテロープなどを狩猟し、女性は獲物の解体や食料植物の採集を分担した。宗教は精霊信仰を基本とし、個々人のビジョン探求を重視し、また太陽、大地、月を神としてあがめた。しかし他の平原先住民と違って、サン・ダンス(太陽踊り)は行わなかった。社会組織は多数の自治的なバンド(生活集団)を基本としていたが、相互の関係は密接で、とくにバイソン狩りに際してはリーダーの指揮で緊密な協力関係を保った。言語はショショーニ語系に属する。

 19世紀に入ると、白人入植者が急増して生活資源であるバイソンを殺し、生存が脅かされたため各地で蜂起し、制圧のため派遣された合衆国軍やメキシコ軍、テキサス騎兵隊と激しく戦った。1867年には合衆国政府との間でメディスン・ロッジ条約が結ばれたが、講和を拒んだ多くのコマンチは、カナ・パーカーの指揮の下で、1875年に降伏するまで武力抵抗を続けた。結局コマンチはカイオワやカイオワ・アパッチとともにオクラホマ南西部の保留地に入ることを余儀なくされた。保留地では伝統的生活様式を捨てて、農業と牧牛をおもな生業とした。その後1907年に保留地そのものがオクラホマの州昇格に伴って解体されたが、連邦信託地として再編され今日に至っている。

 1966年に内務省インディアン局の承認をえたコマンチの憲法条令の下で、彼らは現在カイオワ・コマンチ・アパッチ共同ビジネス委員会の一員を構成している。1990年の人口は1万1437人で、オクラホマ州に5059人(44%)が住み、カリフォルニア州に1519人(13%)、テキサス州に1478人(13%)、その他に3381人(30%)が住んでいる。

[富田虎男]

『ディ・ブラウン著、鈴木主税訳『わが魂を聖地に埋めよ――アメリカ・インディアン闘争史』上・下(1972・草思社)』『富田虎男著『アメリカ・インディアンの歴史』第3版(1997・雄山閣)』

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