グランコロンビア(英語表記)Gran Colombia

改訂新版 世界大百科事典 「グランコロンビア」の意味・わかりやすい解説

グラン・コロンビア
Gran Colombia

S.ボリーバルが南アメリカ大陸北部に創設したコロンビア共和国República de Colombiaの後世の通称。スペインからの独立を容易にし,アメリカ合衆国に効果的に対応することを意図したもの。1819年2月ボリーバルをはじめとする代表者がアンゴストゥーラ(現,シウダード・ボリーバル)で会議し,ベネズエラ,ヌエバ・グラナダ(コロンビア)およびエクアドルを合併して単一の強力な中央集権国家を建設することを決議した。21年3地域の代表はククタで制憲会議を開き,ボゴタを首都に決定し,大統領にボリーバル,副大統領にF.de P.サンタンデルを選任した。行政の実権サンタンデルにゆだねられ,ボリーバルはエクアドルの解放に向かった。しかし各地域のボゴタ中央政府への反発,連邦主義者と教会や中央集権主義者との対立,イギリスの財政援助の不履行,政府人事に関するベネズエラの反対など内部矛盾が露呈し,地域間の対立抗争が激化してきた。

 26年ベネズエラでJ.A.パエス反乱を起こし,27年サンタンデルはボリーバルとの対立から副大統領を辞任した。28年,連邦主義者の蜂起が企てられたが失敗に終わり,責任者と目されたサンタンデルは国外へ亡命した。

 この年再度ボリーバルはオコーニアに制憲議会を召集し,共和国の安定・強化を図ろうとしたが,相互の対立は深く,会議は決裂した。その後各地域は分離独立の方向に向かい,30年,ボリーバルが死去すると,グラン・コロンビアは完全に崩壊した。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のグランコロンビアの言及

【エクアドル】より

…1822年南米の解放者シモン・ボリーバル将軍の副官スクレが南米各地から兵を集めてピチンチャ山麓でスペイン軍と戦い,これを敗走させた。同年5月24日に独立を宣言したが,ペルーを解放したサン・マルティン将軍とシモン・ボリーバル将軍とのグアヤキルにおける会見によって,政治的に南のペルーから離れ,コロンビアおよびベネズエラと合体してグラン・コロンビアの一部を形成する方向が定まった。その後絶えまない内紛の末,1830年5月グラン・コロンビアを離脱し,独立国として再発足した。…

【ベネズエラ】より

…17年,ボリーバルはリャネロス(リャノ)を味方につけて,アンゴストゥーラ(現在のシウダード・ボリーバル)を奪取し,独立ベネズエラの主都とした。19年12月同地でボリーバルの提唱するグラン・コロンビア共和国が成立し,ベネズエラはその一部を形成した。しかし,ベネズエラの大半はまだ王党派の手中にあり,21年のカラボボの戦でようやく独立派の勝利が決定的となった。…

【ボリーバル】より

…ジャマイカから黒人共和国ハイチに赴き,この国の指導者から支援の約束をとりつけたボリーバルは15年に黒人奴隷を解放した。 19年にボヤカの戦闘でスペイン軍を破りコロンビア(ヌエバ・グラナダ)を解放したボリーバルは,この年の12月アンゴストゥーラ(現,シウダード・ボリーバル)でベネズエラ,コロンビア,エクアドルを単一の国家とするグラン・コロンビア共和国を形成し,自分が初代大統領に就任することに同意した。21年にベネズエラとエクアドルを解放しグラン・コロンビアを正式に発足させたのちペルーの解放に向かい,24年のアヤクチョの戦でスペイン軍に大勝してペルーを完全に解放するとともに,イスパノ・アメリカの独立をほぼ決定的にした。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」