アウランゼーブ(読み)あうらんぜーぶ(英語表記)Muyī al-Dīn Muammad Aurangzīb

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アウランゼーブ」の意味・わかりやすい解説

アウランゼーブ
あうらんぜーぶ
Muyī al-Dīn Muammad Aurangzīb
(1618―1707)

インドのムガル帝国第6代の皇帝(在位1658~1707)。シャー・ジャハーン帝の第3子。父帝の治世中、彼はアフガニスタンへの二度の遠征には失敗したが、新たに獲得されたデカン4州の太守に任命され、有能なペルシア人官僚を登用して画期的な税制を敷き、戦乱で荒廃したデカンの復興を進め、領土拡大にも積極的であった。父帝の病気に端を発する帝位継承戦争に勝利し、父帝をアグラの城に監禁し、他の皇子たちを殺害して帝位につくと、その行為を自らの有能さを示すことで正当化しようと、デカンや東北インドで帝国史上空前の大征服戦を展開した。その間はむしろヒンドゥー官僚は優遇された。しかし、父が幽閉されたまま死去した1666年ごろまでに、各地の征服戦がすべて失敗に帰し、逆にそのころからジャート人、アフガン人、サトナーミー教徒、シク教徒などの反乱や、デカンでのマラータ人の興起――これらはザミーンダール(在地領主層)の勢力拡大運動の色彩が濃い――に直面した。すると、元来厳格なスンニー派イスラム教徒であった彼は、ヒンドゥー教徒に対して差別的高率関税の導入(1665)をはじめとして、寺院破壊、宗教的賜与地の没収、アクバル帝以来久しく廃止されていたジズヤ(非イスラム教徒に課する人頭税)の復活(1679)、一部ラージプート人の領地没収など差別政策を導入した。こうして、自らが真にイスラム的君主であるということを強調することによってムスリム貴族層の結集を図り、各地の反乱の鎮圧、反乱した一部ラージプート人の孤立化にひとまず成功した。1681年以降、残るマラータ人を服属させるべく自らデカンに遠征し、ゴルコンダ、ピジャープールの両ムスリム王国を征服するなど最大版図を実現した。しかし、マラータ人のゲリラ戦に苦しみ、皮肉にもヒンドゥー教徒である彼らの懐柔のために多くのジャーギール(給与地)を与えたことなどにより、深刻なジャーギール不足に陥り、貴族層の派閥抗争、農民圧迫が激化した。こうして、ザミーンダールを中心とする農民反乱が頻発するなど帝国衰退の兆しが歴然とするうちに、自らの不運を嘆きつつ89歳の高齢で没した。

長島 弘]

『石田保昭著『ムガル帝国』(1965・吉川弘文館)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例