みやき

改訂新版 世界大百科事典 「みやき」の意味・わかりやすい解説

みやき[町]

佐賀県東部,三養基(みやき)郡の町。2005年3月北茂安(きたしげやす),中原(なかばる),三根(みね)の3町が合体して成立した。人口2万6175(2010)。

みやき町中部の旧町。三養基郡所属。1965年町制。人口1万1482(2000)。東は筑後川を境に福岡県久留米市,北東鳥栖(とす)市に接する。北部は洪積台地,中・南部は筑後川に臨む低地をなし,筑紫平野一角を占める。町名は寛永年間(1624-44)に佐賀藩の重臣成富茂安が千栗土居(ちりくどい)を築いて筑後川の治水に成功したことに由来する。主産業は農業で,米作を中心に野菜や花卉の施設園芸が行われる。久留米・鳥栖テクノポリス圏域にあって,工業生産ものびている。奈良時代の創建と伝える千栗八幡宮は,九州五社八幡宮の一つで,毎年3月15日に豊凶を占う御粥(おかゆ)祭が行われる。

みやき町北部の旧町。三養基郡所属。1971年町制。人口9079(2000)。鳥栖(とす)市の西に接し,北は福岡県。北部の脊振山地に源を発する寒水(しようず)川が中央部を南流する。綾部は《肥前国風土記》所載の三根郡漢部(あやべ)郷の遺称地で,中世には綾部荘があり,荘官で鎌倉幕府御家人綾部氏の居城があった。中原は近世,長崎街道の宿場であったが,現在もJR長崎本線,国道34号線が東西に通じ,交通の便にめぐまれる。このため近隣諸都市のベッドタウン化が進んでいる。工業が主産業で,久留米・鳥栖テクノポリス圏域の一角を占める。戸数が減少している農業では,米のほか野菜栽培養鶏などが行われている。簑原(みのばる)に弥生中期から古墳時代に及ぶ群集墓の姫方遺跡があり,仿製(ぼうせい)鏡や鉄剣などが出土。綾部の宮山に鎮座する綾部八幡神社では,風神五穀豊穣を祈願する〈旗上げ・旗下ろし〉の神事が行われる。

みやき町南部の旧町。三養基郡所属。人口7615(2000)。筑後川下流に位置し,川をへだてて東は福岡県久留米市に接する。全域が筑後川の沖積地からなり,脊振山地を源とする寒水川,切通川,井柳川などが町を縦断,クリークも縦横に走り,水害を被ることが多かった。このため,近世初期,佐賀藩士成富兵庫茂安によって,筑後川西岸に千栗土居が築かれた。筑後川を国境とする肥前と筑後は,江戸時代には藩境争いを繰り返し,河道の変遷もあって,現在もこの付近は佐賀・福岡両県の飛び地が入りまじり,複雑な県界となっている。良質の佐賀米を産し,野菜,イグサ,イチゴの栽培も行われている。西島にある臨済宗光浄寺は,南北朝期,足利尊氏や懐良親王の祈願や寺領安堵をうけたと伝え,古文書を蔵する。市武には江戸後期に佐賀藩の蔵入地を管轄する代官所が置かれた。
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