きょう纈(読み)きょうけち

日本大百科全書(ニッポニカ) 「きょう纈」の意味・わかりやすい解説

きょう纈
きょうけち

夾纈とも書く。纐纈(こうけち)、﨟纈(ろうけち)とともに奈良時代の模様染めを代表するものの一つ。「夾」という語意から挟み染め、すなわち近世の「板締め染め」の技法に類するものであろうと考えられてきたが、近年までその技術の詳細は不明とされていた。この技術がほぼ明らかにされたのは1972年にA・ビューラーによって報告されたキャリコ博物館(インド・アーメダバード)所蔵の2枚の厚い型板の発見による。この1対の型板の片面には相称の模様がドーム状に削り込まれており、板の背面には各模様のドームに通じる孔(あな)がうがたれている。この2枚の板の間に折り畳んだ裂(きれ)を挟み込み、堅く締め付け、板の背面の孔から模様に従って必要な色の染料を注ぎ込む。こうして板の凸と凸の間に挟まれた部分は防染されて白く模様の輪郭線となって染め残り、他の部分は多色に染め分けられる。

 現存するきょう纈類にも、裂を折り畳んだ跡が薄い線となって残っているものがあるが、その線を境に模様はかならず左右あるいは上下に対称をなしており、きょう纈染めの大きな特色を示している。裂地(きれじ)は羅(ら)や絁(あしぎぬ)のような薄い絹が用いられ、これに緑・藍(あい)・紅などで柔らかく染め出された唐花や花鳥模様には、豪華な錦(にしき)には求められない染め模様独得の美しさがある。なかでも「東大寺献物帳」所載の「夾纈屏風(びょうぶ)」や褥(しとね)の表裂に用いられている深縹(ふかはなだ)地花樹双鳥文夾纈絁などはみごとなものである。中国では六朝(りくちょう)末ごろにはこの技法があったものらしく、アスターナ北区309号墓で発見された作例が報告されている。しかし本格的な発達をみるのは、この技法が日本に伝えられた隋(ずい)・唐代のころと思われる。なお日本では、きょう纈は奈良時代を過ぎると衰退してしまうが、中国では明(みん)代のころまで行われていたようである。

[小笠原小枝]

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