お雇い外国人(読み)おやといがいこくじん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「お雇い外国人」の意味・わかりやすい解説

お雇い外国人
おやといがいこくじん

日本の近代化過程において、江戸幕府および諸藩、続いての明治政府や民間の会社・学校などが、ヨーロッパ、アメリカの先進文化を急速に移入するために、各分野・部門にわたり指導者ないし教師として雇用した外国人のことをいう。

 お雇い外国人の先駆は、1855年(安政2)開設の幕府の長崎海軍伝習所にきたオランダ海軍士官・水夫たちであり、またお雇い外国人採用の意見としては、佐久間象山(しょうざん)が自分の妻の兄にあたる勝海舟(かつかいしゅう)の海外留学の希望に対して、翌1856年7月、「いずれにも欧墨諸州の如(ごと)く諸学術を明かに致し候はんには、其(その)州へ留学又は差遣、又彼(かの)州よりも師範のもの召呼ばれ天下普通に其科を御(お)開き御座候様に之(こ)れ無く候ては遂に行届き申まじく候」と書き送った書簡にみえるのが早い例である。

 1860年(万延1)を画期として蘭学(らんがく)が廃(すた)れ、わが国で新しく英語を中心とする洋学が始められるようになると、長崎、横浜などの幕府諸機関や薩摩(さつま)藩などの洋式工業の経営にアメリカ、イギリス、フランス人が雇用されるようになる。やがて明治政府の手によって、富国強兵殖産興業スローガンに、全面的にヨーロッパ、アメリカ文明の長所である近代的諸制度、科学、技術などの移入が急務とされるに至って、お雇い外国人は、政治、法制、軍事、外交、金融、財政、産業、交通、建築、土木、開拓、科学、教育、美術、音楽などの各分野に多数雇用された。政府雇い外国人は、1874~1875年(明治7~8)がもっとも多数で、その数は約520人に上り、その後は漸次減少して、1880年ごろには半数となり、それ以後も漸減した。政府雇い外国人の実総人数は、目下のところ推定の域を出ないが、明治年間を通じておそらく3000人前後に達するであろう。

 職務別では、明治10年代の初めまでは、技術者、学術教師、事務家の順で、とくに前二者が多い。それが明治20年代以降になると、技術者の数が少なくなり、学術教師、事務家、技術者の順となる。「お雇い外国人時代」というのは、1870~1885年に至る、いわゆる「工部省時代」に重なり、ほぼ明治初年から明治20年(1887)ごろまでである。

 国籍別では、政府雇い外国人の大部分は、当時日本との国際的関係のうえで重要な地位を占めていたイギリス、フランス、アメリカ、ドイツの4か国からきた人々であった。イギリス人は、鉄道、電信、灯台、鉱山(以上工部省)と海軍教育(海軍省)、フランス人は横須賀造船所における造船(初め工部省、のち海軍省へ移管)と陸軍教育(陸軍省)、ドイツ人は教育、とくに医学教育(文部省)、アメリカ人は教育(文部省)と開拓(開拓使)の方面でもっとも多く活動し、寄与した。

 お雇い外国人をもっとも多く雇い入れたのは文部省と工部省で、明治政府が近代的な学術と技術の移入にいかに熱心であったかがわかる。とくに工部省時代の全期間を通じてのお雇い外国人の実総人数580人のうち、イギリス人技師が450人と、およそその80%を占め、しかもイギリス人の約半数が鉄道に関係したというところに、日本近代化の特徴がよくうかがわれる。

 民間でも明治政府の方針に呼応して学校や会社にお雇い外国人を採用した。とくに顕著なのが三菱会社(みつびしかいしゃ)で、1875年7月~1876年6月の間のお雇い外国人は300人余りに達し、多くはその所有船の船長・機械方を務めている。民間お雇い外国人の数は、1874年には126人であったが、その後漸次増加して、1892年には572人に達し、政府雇いの漸減とは対照的な傾向を示す。これら民間のお雇い外国人も政府雇いに劣らない大きな貢献をした。

 お雇い外国人は一般に高額給料を支給され優遇された。1876年ごろまでに太政(だじょう)大臣三条実美(さねとみ)の月給800円を超える者が10人前後もあり、右大臣岩倉具視(ともみ)の月給600円を超える者も15人前後いる。しかし、普通には100円以上200円までの者が多かった(日本人の六、七等奏任官たとえば星亨(とおる)租税寮権助・名村泰蔵司法省七等出仕相当)。当時の日本には、「先進国に追いつくまではすべての犠牲を払わねばならない。そのために殖産興業や文化が発達して国益が増せば、打算として損はない」という考えが支配していた。お雇い外国人の歴史的役割は、日本に近代的な技術・学術を急ぎ移植したことにあったが、しかし日本の近代化にとっての助言者ないし脇役(わきやく)たるにとどまった。それは、明治政府なり民間諸会社の指導者たちが近代化政策決定の主導権を固く保持して、これらお雇い外国人に譲ることがなかったからである。彼らは日本の近代化に際し多大の貢献をしたが、わが国が彼らを雇用するにあたり、その国籍について意識的な選択を行ったため、各部門相互の間でそれぞれの技術的・文化的母国が異なる結果を生じ、近代化過程でひずみを生み出すに至った。

 お雇い外国人たちは、一般に日本を愛し、なかには日本人女性を妻として永住した者もおり、僻地(へきち)で牛乳や卵を欠いて不自由な生活に困った者もいる。東京大学で教えたアメリカの動物学者モースの『日本その日その日』は、日本における彼らの生活を生き生きと描いて興味深い。

[梅溪 昇]

『三枝博音他著『近代日本産業技術の西欧化』(1960・東洋経済新報社)』『梅溪昇他著『お雇い外国人』全17巻(1968~1976・鹿島出版会)』『ユネスコ東アジア文化研究センター編『資料御雇外国人』(1975・小学館)』『梅溪昇著『お雇い外国人――明治日本の脇役』(日経新書)』

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大学事典 「お雇い外国人」の解説

お雇い外国人
おやといがいこくじん
foreign instructor of higher education

幕末・明治期に,日本の近代化を推し進めるべく,西欧諸国の学術技芸を急速に摂取するため,官公庁,学校,病院,民間組織などで各部門・分野にわたる指導者や教師として採用された外国人をいう。お雇い外国人の総数は未確定ながら,約3000人は存在したとされる。明治前期までは自然科学系分野の技術者・官吏・教師が多いが,明治後期になると人文・社会科学系分野の教師・事務家などが多い。国籍別にみるとアメリカ・イギリス・ドイツ・フランスなどが多く雇用され,部門・分野ごとの意識的な選択採用がなされた。たとえばドイツからは医学教育を,イギリスからは鉄道・鉱山を,フランスからは造船・陸軍教育を,アメリカからは教育・農業などの方面を重点的にお雇い外国人教師から学んだ。お雇い外国人のなかには,太政大臣三条実美や右大臣岩倉具視の月給を凌ぐ者も数十名は存在した。1880年代以降,邦人教師,邦人技術者の台頭により,お雇い教師は漸次減少していった。親日家となるお雇い外国人もおり,また多くの日本人から長く愛される者も多い。
著者: 谷本宗生

出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報