黄老思想(読み)こうろうしそう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「黄老思想」の意味・わかりやすい解説

黄老思想
こうろうしそう

中国の道家(どうか)思想の一派。神話や伝説上の帝王黄帝(こうてい)と、道家思想の開祖とされる老子(ろうし)とを結び付けた名称である。漢の初め(前2世紀前半)に政術思想として為政者の間で流行した。宰相曹参(そうしん)が無為(むい)清静の政術として斉(せい)の国から伝え、秦(しん)の厳しい法治に苦しんでいた人心を解放するものとして歓迎された。ことさらなことをせず、基本的な法にゆだねて単純簡素な政治を行うことを主にし、『老子』や『黄帝書』を尊重した。ほぼ50年にわたって漢の統治の指導理念となっていたが、武帝(在位前141~前87)の儒教尊重による積極的な政治思想によって衰微した。

 1973年に馬王堆(まおうたい)で発見された古文書に、『老子』と続いた「経法」などという4編があり、黄老関係の資料とされている。黄老の起源ははっきりせず、『史記』によると、戦国中期の申不害(しんふがい)や末期の韓非(かんぴ)などの法家(ほうか)思想もそれに基づいたものとされているが、おそらく戦国末期の斉の国でおこったとみるのが正しいであろう。武帝ののちでは、もはや政術としての性格を失ったが、後漢(ごかん)では「黄老浮図(ふと)」とよばれ、浮図すなわち仏陀(ぶっだ)と並ぶ信仰対象として祭祀(さいし)が行われ、後の道教信仰に連なる様相をみせている。

金谷 治]

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世界大百科事典(旧版)内の黄老思想の言及

【漢】より

…秦の始皇帝の焚書坑儒(ふんしよこうじゆ)によって弾圧された学問や思想は漢に入って復興し,再び儒家,法家,道家,陰陽家など諸子百家の乱立時代を迎えた。ただ漢初は,政治的には秦の遺産と伝統を継承しながら,戦後の復興のために秦のような積極策をしりぞけて消極策をとることにしたため,無為にして化すという黄老(こうろう)思想(道家の思想)が流行した。文帝に代表される無為の政治は,この道家思想を背景としたものである。…

【黄老】より

…しかし〈黄老〉と熟した用例は《史記》以前の文献にはなく,その史実性は疑わしい。要するに,黄老思想の成立は早くとも戦国末のことであったと考えられる。漢初には,〈黄老の術〉を治道のかなめに用いた曹参や,〈黄帝老子の術〉を愛した陳平など,秦の法術主義の反動として,〈清浄無為〉の政術を標榜する思想が有力なものとして存在した。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」