鴨部郷(読み)かもべごう

日本歴史地名大系 「鴨部郷」の解説

鴨部郷
かもべごう

和名抄」高山寺本・東急本ともに「鴨部」と記し、訓を欠く。「土佐国風土記」逸文(吉田家文書)に「土左郡有鴨部郷」とあり、天平勝宝四年(七五二)一〇月二五日付の造東大寺司牒(正倉院文書)によれば、この時東大寺に施入された封戸一千戸のなかに「土左郡鴨部郷五十戸」がある。保延三年(一一三七)四月日付の石清水八幡宮検校光清譲状案(石清水文書)には鴨部庄がみえる。また「続日本紀」神護景雲二年(七六八)一一月一八日条に「土左郡人神依田公名代等一人賜賀茂」とあるのは鴨部郷在住のものかと思われる。

鴨部郷
かもべごう

「和名抄」高山寺本・流布本ともに「鴨部」と記し、高山寺本のみ「加毛倍」と訓ずる。「文徳実録」嘉祥三年(八五〇)七月の条に「伊予国力田物部連道吉、鴨部首福主等叙位一階、道吉等傾尽私産、賑贍窮民、故有此賞」の記事がある。善行により叙位された福主はこの郷の者であろう。

鴨部郷
かもごう

「和名抄」の諸本に訓を欠く、宝亀一一年(七八〇)西大寺資財流記帳(西大寺文書)によると、寒川郡内に坂本毛人が献じた塩山があった。建久二年(一一九一)の西大寺領庄園注進状案(同文書)に「寒川郡鴨郷 墾田地二町 畠三町五段百卅九歩」とあり、続けて「塩山二百五十町在所十二所」「塩釜一面広四尺、厚二寸」と記すので、先の塩山は当郷内にあったと推測される。

鴨部郷
かもべごう

「和名抄」諸本とも訓を欠く。鴨氏の部曲で、賀茂神への奉仕に関係があったといわれる鴨部にかかわる郷か。神護景雲四年(七七〇)六月二五日の持経師位法師恵雲優婆塞貢進文(正倉院文書)に「伯耆国会見郡賀茂郷戸主賀茂部馬戸口」の賀茂部秋麻呂(二〇歳)がみえ、この賀茂かも郷は当郷のこととも考えられる。

鴨部郷
かもごう

「和名抄」の諸本ともに「加毛」と訓を付す。中世には京都下鴨しもがも社に寄進されたかも郷がみえる。近世鴨村を遺称地とし、現坂出市東部の加茂かも町のうち氏部うじべを除く地域に比定される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報