高野町陣屋跡(読み)たかのまちじんやあと

日本歴史地名大系 「高野町陣屋跡」の解説

高野町陣屋跡
たかのまちじんやあと

[現在地名]佐久町大字高野町 翠町

承応二年(一六五三)甲府城主徳川綱重が佐久領を管理するために置いた陣屋。

村のほぼ中央にあり、佐久甲州往還西側一帯の地を占めていた。寛政元年(一七八九)の高野町陣屋絵図(高見沢元吉氏蔵)によると、陣屋の北方およそ三町余に牢屋が設けられていた。

元禄一四年(一七〇一)八月、高野町の名主問屋長百姓連名で、高野町陣屋の存続を代官所に願い出た(「乍恐奉願上候御事」高見沢九三郎氏蔵)が、甲府城主徳川綱豊が将軍職を継ぎ、幕府領に編入されるとともに高野町陣屋は廃止となった。しかし享保一〇年(一七二五)旗本水野忠穀領一九ヵ村七千石が設置されるとともに再び高野町に陣屋が置かれることになった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報