高村(読み)タカムラ

デジタル大辞泉 「高村」の意味・読み・例文・類語

たかむら【高村】

姓氏の一。
[補説]「高村」姓の人物
高村薫たかむらかおる
高村光雲たかむらこううん
高村光太郎たかむらこうたろう
高村智恵子たかむらちえこ

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精選版 日本国語大辞典 「高村」の意味・読み・例文・類語

たかむら【高村】

姓氏の一つ。

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日本歴史地名大系 「高村」の解説

高村
たかむら

[現在地名]庄原市高町

大黒目おおぐろめ山の北西麓、西城さいじよう川東岸に集落が位置し、東北は奴可ぬか平子ひらこ(現比婆郡西城町)、東南はほん村、西は西城川を挟み川西かわにし村に接する。三上みかみ郡に属した。「和名抄」記載の三上郡多可たか郷の地にあたると思われ、中世を通じて高郷の名でよばれた。高庄ともよばれたが、この高郷・高庄の地は近世の高・川西・小用およう大久保おおくぼ永末ながすえ高門たかかどの六村を含んだ地といわれる(芸藩通志)。村域の東側、要害ようがい(雲井山)山麓には、大型の横穴式石室を含む谷山たにやま古墳群をはじめ、円墳多数が散在し、ふじたに古墳からは箱式石棺・櫛目文土器などが出土し、早くから開けた地であったと思われる。

中世にはじび庄の地頭山内氏の勢力が、この地にも及んでおり、足利尊氏挙兵当初から足利方として活躍した山内氏は、応安七年(一三七四)高郷の地頭職を得ている(山内首藤家文書)

高村
たかむら

[現在地名]原町市高

ほぼ東流する太田おおた川の南岸に位置し、東は米々沢めめざわ村。「奥相志」に「古くは多珂に作り、また多賀或は鷹に作る。寛永十六年の査丈以来高に作るといふ」と記される。明暦二年(一六五六)枝郷の小木迫おぎさく村を分村(相馬藩政史)。天保郷帳に「古者 高村・小木迫村・町田新田三ケ村」と注記される。「和名抄」にみえる行方なめかた多珂たか郷の遺称地とされる。

永仁二年(一二九四)八月二二日の関東下知状(相馬文書)によると、相馬胤村の遺領である「陸奥国高村并萩迫」が九男胤門に安堵された。同年の相馬氏配分系図(同文書)では、胤村の遺領のうち九町九段一合が胤門およびその養子重胤(胤門の兄彦次郎師胤の実子)に配分されている。年月日未詳の相馬胤村譲状(同文書)では、後家分の小高おだか(現小高町)など五ヵ村のうちの二村の替地として「北田・高村等」とみえるが、同譲状は検討の余地がある。永仁四年八月二四日には胤門が重胤を養子として「たかのむらのみさハやま」を譲渡しているが、後家分・女子分および胤門が孝養分とした祖母分の一部の田在家は一期の後に重胤の知行とすることが定められている(「相馬胤門譲状」同文書)


たかえむら

[現在地名]大刀洗町高樋

筑後川支流の大刀洗川上流域、山隈原やまぐまばるの台地の南端に位置する。南は上高橋かみたかはし村。二塚ふたつかつじ八田はつたの諸遺跡など弥生時代から古墳時代の遺跡があり、小道こみち遺跡では環濠集落をつくる大溝が発見された。当初タカヒともよばれたが、朝倉あさくら(現杷木町か)に滞在する斉明天皇が樋の草書体が柄に似ていて「高え」と読んだことから、この呼び名になったという伝承がある(大刀洗町史)。康保元年(九六四)大宰大弐藤原佐忠が安楽寺(太宰府天満宮)東法華堂に「高比庄」一〇〇町を寄進したという(安楽寺草創日記)。観応三年(一三五二)書写の安楽寺領注進状に高樋庄がみえる。また「付鵜木空閑、又上浦空閑」の注記があり、当庄を本拠とする名主層の出作により両所が開発され、加納として組込まれたものであろう。


たかだまむら

[現在地名]天童市高擶・中里なかざと二―三丁目

東は羽州街道に沿って南から清池しようげ村・蔵増門伝くらぞうもんでん村・芳賀はが村、西は灰塚はいづか(現山形市)に接する。最上氏支城の高擶城を中心として形成された。寛永一三年(一六三六)の保科氏領知目録では高六千九四五石余。正保郷帳では田方五千七八四石余・畑方一千一六〇石余・寺社領八二九石余。寛文一二年(一六七二)の検地で枝郷清池村を分離し、高五千四二〇石余となる。宝暦一一年(一七六一)の村明細帳(長井政太郎氏旧蔵文書)では田二三八町一反余・畑一一〇町六反余・新田二町六反余・新畑三五町四反余、ほかに山寺立石やまでらりつしやく(現山形市)領朱印地二六町五反余があり、主要な用水堰は山寺村宮崎みやざき(現山形市)立谷たちや川から揚水する山寺堰である。

高村
たかむら

[現在地名]宇佐市上高かみたか下高しもたか

吉松よしまつ村の西、糸口いとぐち丘陵上にある。西は時枝ときえだ村。中世は高家たけい弘山ひろやま庄の内で、また宇佐宮(および弥勒寺)の土器長職に付された免田「高村」の地。早くから土器の生産をしていたとみられ、字水江みずえには祭器焼窯跡が、字西中にしなかには焙烙窯跡がある。天文四年(一五三五)三月一八日の高村土器長分同自作田畠居屋敷坪付(高牟礼文書)にみえる居屋敷いやしき薗田そのだ(其田)今池いまいけ佐野畠さのばた(佐ノ畑)、嘉暦二年(一三二七)三月三日の藤原氏女等連署田畠寄進状(辛島文書)にみえる二九筆のうちイトクチ(糸口)・ナカツイ(中津井)・カキソイ(柿添)・小熊・田中などの地名は現在も残る。


たかひむら

[現在地名]田舎館村高樋

浅瀬石あせいし川によって形成された、平地との比高四―七メートルの河岸段丘上にあり、東は追子野木おつこのき(現黒石市)、西は垂柳たれやなぎ村、北は十二川原じゆうにかわら村に接する。

天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字に「高樋たかひ」とある。天正一三年(一五八五)浅瀬石(現黒石市)の千徳大和は、南部の長杭日向軍を撃退した功により、大浦(津軽)為信より高樋村などを拝領した(津軽一統志)

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の田舎郡に高二〇三石、うち田方一八四・四八石とある。天和四年(一六八四)の書上帳の絵図に高日村とあり、家数二一、うち一一軒本村屋敷、二軒同裏屋、六軒支村屋敷、二軒同裏屋とあり、支村として十二川原・すずき沼・長越ながごし村・三まひ原などがみえる。


たかつじむら

[現在地名]蘇陽町高辻

川走かわばしり川と旅草たびぐさ川の間にあり、東は菅山すがやま(現高森町)、西は旅草村、北は西竹原にしたけばる村、南は下山しもやま村に接する。近世には上流から早楢わさなら村・小倉こくら村が並び、この二村が明治九年(一八七六)に合併して高辻村となる。中世には早楢村のみがみえ、早奈良・早良とも記され南郷に属し、当地は南北朝期以降阿蘇社への各種の課役を負担している(正平七年二月吉日「阿蘇社上葺等次第」阿蘇家文書など)

高村
たかむら

[現在地名]下総町高

小野おの村の北東に位置する。中世は神崎こうざき庄に含まれ、多賀たか郷とよばれた。寛文四年(一六六四)の井上政清領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ、高岡藩領であった。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高三五二石余で、同藩領。宝永二年(一七〇五)の高岡藩領一一ヵ村差出帳(成田山仏教図書館蔵)によれば、本高に込高・新田高を加えて高四八五石余となっている。正徳四年(一七一四)には年貢は米一七二石余、俵にして種貸利米一七俵を含めて五〇五俵余を納めている(「年貢割付状」高区有文書)。弘化三年(一八四六)の家数六〇(「組合村取調帳」宝田家文書)。文久二年(一八六二)には家数六六(「五人組改帳」大竹家文書)

高村
たかむら

[現在地名]城南町高

緑川にほど近い平野部に位置し、周辺は丹生宮にゆうのみやながいかり赤見あかみの各村と耕地で境する。元応二年(一三二〇)六月一日の後家慈妙田畠屋敷中分状案(相良家文書)に「隈庄五郎丸名」の「坪々中分之田地」として「桝里」があり、一坪―一二坪にわたり坪付と田数が記される。古代の条里が施行され、「桝里」は高村を中心としたと推定される(城南町史)。「郡村誌」にも口坪くちのつぼ三十六さんじゆうろくの字地がみえる。中世は隈牟田くまむた庄内にあり、少なくともその一部は五郎丸ごろうまる名を構成していた。戦国期の隈庄在城衆着到人数書(相良家文書)に高村式部少輔・高村又六郎がみえ、当地を本貫とする領主の可能性も想定される。正応四年(一二九一)の石造宝塔や文明六年(一四七四)の高さ三・四五メートルの六地蔵が集落や交通の中心部にある。

高村
たかむら

[現在地名]吉井町高

東境を大沢おおさわ川が北流、北は下長根しもながね村、西は長根村、南は神保じんぼ村と接する。寛永二年(一六二五)当村五一石が倉橋内匠助に与えられた(記録御用所本古文書)。寛文郷帳では田方八石七斗余・畑方四二石二斗余、旗本倉橋領。江戸後期の御改革組合村高帳では幕府領。秣場は牛伏うしぶせ大野おおの秣場を利用、文久四年(一八六四)に「鋸鉞等不相用」という議定を知らぬ当村の若者が立木伐採をしたために問題となり、大惣代多胡たご村名主が仲介し伐木を差出すことで決着している(「秣場伐木詫証文」大沢文書)

高村
たかむら

[現在地名]八日市場市高・みどりだいら

蕪里かぶざと村の北東、横須賀よこすか村の南東に位置し、集落は水田と沼地に囲まれている。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳に村名がみえ、旗本本田(本多)領五五〇石・同宮城領一八〇石とあり、高組に属した。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高六〇三石余、本多領と幕府領の相給。弘化二年(一八四五)の関東取締出役控帳では高一千二九五石余、本多領一千一五四石余・幕府領一四〇石余で、家数一二〇。

高村
こうむら

[現在地名]三原町倭文高しとおりこう

掃守かもり村の北にある。北部から中央部が山地で南部は平地。南部を倭文川が北西流する。正保国絵図に村名がみえ、高一一九石。天保郷帳では高二〇九石余。反別戸数取調書によると反別一七町二反余、高二一九石余、うち蔵入高一六五石余・給知高五五石余。給人は生駒右近ら五人。家数五二・人数二九八。水利として北部山地にひし池・しん池ほか溜池が多い(味地草)


たかつじむら

[現在地名]高岡市高辻

月野谷つきのや村の南に位置し、東端は下八しもはつヶ用水に沿う。東は答野島とうのしま村。元和五年(一六一九)の家高新帳では国吉才二郎組に属して村名がみえ、役家数五。正保郷帳では手洗野たらいの村と併記して村名がみえ、高五四〇石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印による草高一七七石・免六ツ七歩。同五年の新田高一石。小物成は山役五〇匁(三箇国高物成帳)

高村
たかむら

[現在地名]麻績村高

江戸時代の松本藩領麻績組の村で、ひじり山南麓の高ノ城を中心に開けた村。南は桑山くわやま村、東は上井堀かみいぼり村、西は坂北さかきた組の仁熊にゆうま村に接する。天正検地の際五〇石三斗二升と初めて高付けされている。享保九年(一七二四)当時の石高は一二六石三斗四升一合九勺とある。高城は村の北にあり、巨大な山城で青柳氏(麻績氏)の西境を固めた支城であった。

村の西に松本藩の高村番所があった。「信府統記」に「高村番所、切米二十俵番人高野茂兵衛 一当番所往還諸色改等ハ、右口々番所同断、番所修覆ハ茅葺ノカヤ・柵木・門柱ハ麻績拾ケ村ヨリ出ス、此外城主ヨリ修覆ス、一番所六間ニ三間茅葺、番所道具、一鉄砲三挺、一鑓三筋、一棒三本、一もしり二本、一天水桶五ツ右諸道具城主ヨリ渡シ置ク」とある。

高村
たかむら

[現在地名]香芝町大字高

馬見うまみ丘陵西部、葛下川西岸の微高地に立地。葛下川の氾濫を避け、小字ふるヤシキより移住したと伝える。北は中筋なかすじ村。近世初期は上里かみさと村の内。元和五年(一六一九)郡山藩(松平忠明)領。

享保九年(一七二四)の和州御領郷鑑(柳沢文庫)によると反別二一町四畝六歩、家数五六、人数二二三(男一〇六、女一一四、僧三)、座頭一、鍛冶屋一、木綿屋一、米屋一、綿中買一、牛一一。


たかひむら

[現在地名]奈良市高樋町

虚空蔵こくぞう川流域、虚空蔵山(高樋山)の東方にある。「経覚私要鈔」長禄二年(一四五八)六月二七日条に「高樋散郷云々落居煙上之由之 酉下刻」とある。「多聞院日記」永正三年(一五〇六)七月一二日条に「自窪庄高樋へ寄了、求目谷高樋放火了、高樋本城相踏畢、筒井之使者今市西福住殿被負手畢」とみえ、同書元亀元年(一五七〇)八月二〇日条には「暁筒井ヨリ古市郷少々焼之、高樋山ニ城拵之由也」とある。

高村
あしたかむら

[現在地名]舟橋村古海老江ふるえびえ

白岩しらいわ川の支流ほそ川左岸に位置する。西は東芦原ひがしあしはら村、南東は古海老江村。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高三二石、免三ツ六歩(三箇国高物成帳)。天明四年(一七八四)の高三二石、銀高六匁余(「高野用水水下銀仕立之覚」杉木家文書)


たかつじむら

[現在地名]東郷町高辻

川上かわかみ村の西、東郷川と川上川の合流点付近に位置する。村名は南方の波関なんぜき峠からの道と東方の川上峠からの道が交差することに由来するという。拝領高一七八石余、本免六ツ二分。宮脇氏の給地があった(給人所付帳)。寛永三年(一六二六)の田畑地詰帳(山本家文書)によると田一一町五反余で、畑反別および高は不明。

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