養寿寺(読み)ようじゆじ

日本歴史地名大系 「養寿寺」の解説

養寿寺
ようじゆじ

[現在地名]東村国定 寺内出

はや川左岸、緩やかな台地上に位置。天台宗本尊阿弥陀如来。境内に国定忠次の墓があることで知られる。寺伝によると、承暦年中(一〇七七―八一)僧円栄により創建され、相応寺と称されたという。現在地の西方約五〇〇メートルほどの字古屋敷こやしきにあり、寛永三年(一六二六)火災にあい焼失したと伝える。その後集落が東西に分れるに伴い、東方に移り、太田金山かなやま(現太田市)に相対しているので金城山常楽院養寿寺としたという。安政三年(一八五六)再度火災にあい記録などを焼失。寺には凝灰岩製の善光寺三尊石仏・五輪塔基台、正応六年(一二九三)銘など五枚の板碑がある。

養寿寺
ようじゆじ

[現在地名]西尾市下矢田町 郷

県道寺津てらづこう線の東側の集落の中にある。亀休山松樹しようじゆ院といい、浄土宗西山深草派。本尊阿弥陀如来。東条とうじよう城主吉良義安の創建、勤操僧都を開基とする。もと天台宗であったが、寛正二年(一四六一)彰空宗永が再興して浄土宗に改宗、文明年中(一四六九―八七)吉良義安の室矢田姫が没し、当寺に葬る。

養寿寺
ようじゆじ

[現在地名]豊田市花園町 屋敷

花園山と号し、真宗大谷派、本尊阿弥陀如来。悪七兵衛景清が出家して建てたといわれ、創建年代は養和―寿永期(一一八一―八五)という(碧海郡誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報