飯富村(読み)いいとみむら

日本歴史地名大系 「飯富村」の解説

飯富村
いいとみむら

[現在地名]中富町飯富

南境を東流するはや川と富士川との合流地点、伊沼いぬま村の南三―四町、北の下山しもやま宿(現身延町)へは二八町の所に位置する。早川北岸沿いの径路は早川入諸村に通じる。「甲斐国志」では「おふ」と読み、飯富源太宗長の所領だったという。本来飫富であるべきを飯富と誤り、「いいとみ」とよばれるようになったともいうが、飫富と表記された事例はない。宗長は逸見光長の猶子となっており(「吾妻鏡」元暦二年六月五日条)、甲斐と関係することは明らかだが、当地を領有した事実は確認できない。戦国期には飯富兵部小輔虎昌が領し、当地西部の山中にある兵部平ひようぶだいらはその館跡というが、伝承にすぎず、当地が飯富氏の本拠であったかは不明。急流の早川には飯富から対岸の下山への渡しがあり、江戸時代にも早川の横渡し(飯富の渡)として難所の一つに数えられている。「高白斎記」天文一五年(一五四六)八月三日条に「飯富ノ川除普請十貫ノ分ニ三間五尺請取」とみえる。なお「一蓮寺過去帳」によれば、寛正(一四六〇―六六)から文明(一四六九―八七)頃の供養と推定される来阿弥陀仏・道阿弥陀仏に「飯富」と注記される。

慶長古高帳では高四三石余、幕府領。寛文一一年(一六七一)検地帳(県立図書館蔵)によれば高一二一石余、反別田二町余・畑二〇町五反余・屋敷一町四反余、屋敷数六三。

飯富村
いいとみむら

[現在地名]袖ケ浦市飯富

神納かんのう村の東、新田につた村の西に位置する。古代の望陀もうだ飫富おふ(和名抄)、中世の飫富庄の遺称地とされる。天正二〇年(一五九二)三月六日の知行宛行状に飯富之郷とみえ、八〇八石余が天野領となった。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に飽富村とあり、高八九九石余。正保国絵図では飯富村と記される。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では旗本天野二氏領となっており、幕末に至る(斎藤家文書・鳥飼家文書)。定助郷役は奈良輪ならわ村に人馬を差出していた(鳥飼家文書)。寛政五年の上総国村高帳では家数一七四。

飯富村
いいとみむら

[現在地名]水戸市飯富町

水戸城下の北西に位置し、那珂川右岸にある。北は藤井ふじい川を境に藤井村・岩根いわね村。那珂川沿いの東部は低地で、西部は台地をなす。台地の裾沿いを那須街道がほぼ南北に貫き、村の南部で分れた日光道が成沢なるさわ村に通ずる。

古代は「和名抄」の那賀なか郡の項に大井おおい郷がみえ、当村はこの地にあたるという(常陸誌料郡郷考、新編常陸国誌)大井郷の名は正倉院に保存される調布四点の一に「常陸国那珂郡大井郷戸主宇治部花麻呂戸宇治部(小中カ)調曝布壱端長四丈二尺・広二尺四寸専当国司大掾正六位上池原君豊石・郡司擬少領大初位下宇治部大成天平宝字元年十月」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報