飯室村(読み)いむろむら

日本歴史地名大系 「飯室村」の解説

飯室村
いむろむら

[現在地名]安佐北区安佐あさ町飯室

鈴張すずはり村の南に位置し、北東の堂床どうとこ山、北西の牛頭うしず(六七二・六メートル)、西南の本串ほんぐし(五七二・八メートル)などの山に囲まれる。南境を流れる太田おおた川は、本串山の南麓を湾曲して東北流し、宇津うづ鈴張村から流入する鈴張川を合わせ、流れを南に変える。対岸上流は沼田ぬまた小河内おがうち村、下流は同郡久地くち村・毛木けぎ村。可部かべ町からの道は二本あり、一は石見浜田路を南原なばら村で西へ分れ、綾谷あやがたに村から植松うえまつ峠を越えてはた谷へ入る。二は勝木かつぎ村から火の見ひのみ山の南の峠を経て飯室古市いむろふるいちへ通じる道で、庄原街道は後者をとり、清水しみず峠から鈴張村へ出た。村名の由来は不詳であるが、「郡中国郡志」は「往古諸国ニ氷室ヲ被構候事有之由、若是等ノ言訛共ニハ御座有間敷歟ト考合仕」とし、関屋せきや村は当村より分れたとの説をあげている。

鎌倉中期と推定される三月日付の安芸国衙領注進状(田所文書)に「飯室村三丁二反三百歩」がみえ、不輸免一丁三反(五ヶ寺免・公廨田・主典免)と応輸田一丁九反三〇〇歩からなり、また「同久武三丁五反百八十歩」があり不輸免三丁一二〇歩(五ヶ寺免・八幡無量寿院免・久武公廨田)・応輸田五反六〇歩とある。

飯室村
いいむろむら

[現在地名]浦川原村飯室

保倉ほくら川右岸台地上にある。西は石神いしがみ新田(現中頸城郡頸城村)、東は飯室新田に接し、対岸南は今熊いまぐま村。通称はなさき街道に沿う。近世末まで保倉川舟運の船着場があり、水陸交通の要衝である。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図では「御料所窪田扱此外四方分飯室村 上」とあり、本納四六石六斗八合・縄高九七石八斗一合、家一〇軒・四三人。船津ふなつ村・花ヶ崎(現中頸城郡頸城村)を通り直峰のうみね(現安塚町)へ通じる保倉川右岸の街道が、当村と保倉川の間を通る。

飯室村
いいむろむら

[現在地名]富来町給分きゆうぶん

中泉なかいずみ村の北北東の方角にあった無家村。六拾四ヵ村明細記(安成寺文書)に「無家村ニ而八幡座主村江寄セ村ニ而御座候」とみえ、八幡座主やわたざす・給分・里本江さとほんごう中泉四ヵ村の懸作の地とある。正保郷帳では「八幡村 里本江村 飯室村」として一括して高付。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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