須賀浦(読み)すがうら

日本歴史地名大系 「須賀浦」の解説

須賀浦
すがうら

[現在地名]宇和島市藤江ふじえ御幸町みゆきまち一―二丁目・朝日町あさひまち一―四丁目・寿ことぶき町一―二丁目・住吉すみよし町一―二丁目・住吉町・弁天べんてん町一―三丁目

宇和島城下町の北部、須賀川河口の村。東はしも村、西はおお浦に接する。宇和島藩領。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)、天保郷帳にも村名はないが、「大成郡録」に「下村之内須賀浦」とあり、下村から分離された村である。「墅截」には「須賀椛崎かばさき浦」とあり、江戸時代初期に須賀・椛(樺)崎をあわせて独立の浦とし、須賀浦と呼称されるようになったと考えられる。天明三年(一七八三)須賀浦は藤江浦改称された。改称は世直し、つまり村勢の発展を祈念したものである(東宇和郡沿革史)

太閤検地石高は一七四石三斗三升、耕地面積の比率は田七四パーセント、畑二六パーセントであったが、寛文検地では石高が三一パーセントも増加し、田六五パーセント、畑三五パーセントとなった。

須賀浦
すがうら

[現在地名]熱田区須賀町

東の大瀬子おおせこ浦から西の木之免きのめまでの浦一〇二間をいう。家数三七一のうち、舟年寄二、舟肝煎三、舟乗り一二〇で、その他は工商が入交じっていた。この辺りは往古海であったが、寛永一〇年(一六三三)・承応三年(一六五四)に築出し、町家が建並んだ(徇行記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報