青海村(読み)おうみむら

日本歴史地名大系 「青海村」の解説

青海村
おうみむら

[現在地名]坂出市青海町・大屋富町おおやぶちよう

高屋たかや村の東から北を村域とし、青海川沿いに平地が広がるほかは白峰しろみね山・大平おおひら山の山地。西は青海川河口に至る。「讃岐国名勝図会」に「松山の北麓なり、この所、山を廻りて湾なり、往古、よき廻船の湊にありしといへり」とある。古代の阿野あや松山まつやま(和名抄)、中世の松山庄に含まれたと推定され、白峰山上に崇徳天皇陵白峯しろみね寺が所在する。応永一三年(一四〇六)白峯寺縁起には治承年間(一一七七―八一)青海は白峯寺に寄進されたとある。

天正一四年(一五八六)二月一三日仙石秀久は一〇〇石の地を白峯寺に寄進しているが(「仙石秀久寄進状」白峯寺文書)、同年八月二四日の秀久の寄進状(同文書)には、その一〇〇石は「青海之内を以新介弥右衛門方より可被請取者也」とある。同一五年一〇月一八日、生駒親正(近規)は大山入蔵に一五〇石を宛行ったが、うち六七石七斗分は青海村とある(「生駒親正宛行状写」大山家文書)

青海村
おうみむら

[現在地名]峰町青海

三根みね村の西方津柳つやなぎ村の南西にあり、西面にしめ荒浜に臨む。三根に通じる山道の峠から南に高く、火立隈ほたてぐまがあり、烽が設置された地ではないかと伝承されるが、遺構は確認できない。晴れた日は巨済島がよく見える。「津島紀略」では「阿布美」と訓じる。中世は三根郡のうちで、暦応二年(一三三九)少弐頼尚は、みね郡内の「青見村」の畠一町三段内半分下作職について、源次郎左近允国正の押作を止めて、同郡住人の朽木孫次郎国吉に引き渡すよう命じている(同年三月二六日「少弐頼尚書下写」宗家判物写)。南西の海岸にある寄神よりかみ神社は応安五年(一三七二)青見左衛門次郎が祀ったものという。応永の外寇の際、ぬか岳で朝鮮の軍勢と戦って敗死した青見三郎左衛門は当地の者とされる。延徳二年(一四九〇)四月七日の宗貞国安堵書下(三根郷給人等判物写)に「峯郡内あふミのさいけ」とみえ、平山彦五郎は父親から居屋敷・田・園・木庭・茶園など一一ヵ所を含む在家を譲られた。

青海村
おうみむら

[現在地名]青海町青海

北陸道が青海川河口と交わる辺りのわずかな平坦地に立地する。「延喜式」に「滄海あをうみ八疋」とあり、北陸道の越後国最初の宿駅で、滄海は青海をさす。通常は一駅に五疋だが、難所が続くため八疋の馬が配されている。古代の交通は海岸線を避けて、山道をとり、最初の駅は蛭谷びりだん辺り、のちに下流の大沢おおさわへ移ったと思われる。青海川に沿ってのぼると橋立はしだて村、さらに山道をたどると坂田さかた峠を越えて上路あげろ村に通ずる。正保国絵図に六三五石余とあり、延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳に「此所駅馬、船寄有之」とある。天和三年郷帳に高五二四石一斗余、うち山高一石九斗九升四合とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報