霊仙寺村(読み)りようせんじむら

日本歴史地名大系 「霊仙寺村」の解説

霊仙寺村
りようせんじむら

[現在地名]栗東町霊仙寺

小平井こびらい村の北、葉山はやま川右岸平地に立地。「輿地志略」によれば、往古は栗太村と称し延暦寺の霊仙坊が当地に居住したので村名となったという。中世後期へそ大宝だいほう神社祭祀中核となり勤仕した綣村五郷のうちに「霊仙寺」がみえ、惣村宮座としてのモロト講が組織されていた(大宝神社文書)大学坊跡だいがくぼうあとの地名が残るが、同坊は霊仙坊(寺)とともに大宝神社の社坊中に名がみえる(栗太志)。慶長検地では高五九一石余(正徳三年「郷村高付帳」中村文書)。寛永石高帳では旗本木下領四三五石余・旗本竹中領一五六石余。以後相給で幕末に至る。享保一〇年(一七二五)から守山宿助郷に勤高五二一石で出役(黒羽文書)

霊仙寺村
りようぜんじむら

[現在地名]高槻市霊仙寺

奈佐原なさはら村の北東にあり、女瀬によぜ川の最上流右岸の山中に位置する。霊山りようぜん寺の門前村として近世初頭に成立した。文禄三年(一五九四)一〇月の芥川郡霊山寺御検地帳(霊山寺文書)では高二八石余。永禄一二年(一五六九)九月二七日の霊山寺宛室町幕府奉行人連署寺領安堵状(同文書)に「旧寺領山林二十四町」とあるうちの一部か。慶長一〇年(一六〇五)摂津国絵図には「霊山村」とみえ高二九石余。元和初年の摂津一国高御改帳では幕府領、寛永一〇年(一六三三)一部が山城勝竜寺藩永井直清領になり、寛永―正保期(一六二四―四八)の摂津国高帳では高三一石余、うち同藩領八石余と京都所司代板倉重宗領二三石余の相給。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報