雪浦村(読み)ゆきのうらむら

日本歴史地名大系 「雪浦村」の解説

雪浦村
ゆきのうらむら

[現在地名]大瀬戸町雪浦上郷ゆきのうらかみごう雪浦下郷ゆきのうらしもごう雪浦下釜郷ゆきのうらしもかまごう雪浦小松郷ゆきのうらこまつごう雪浦幸物郷ゆきのうらこうぶつごう雪浦河通郷ゆきのうらごうつうごう雪浦奥浦郷ゆきのうらおくうらごう雪浦久良木郷ゆきのうらきゆうらぎごう

瀬戸村の南に位置し、南西部は雪浦川が海(五島灘)に注ぐ。雪浦河通郷の目一めひとぼう岩に石鍋製作所跡がある。中世より雪ノ浦などとみえ、雪浦下郷の熊野神社は南北朝期の創建と伝える。雪浦上郷には中小路なかしようじ下小路しもしようじ宮小路みやしようじ治郎丸じろまるがあり、またしろこし古城跡がある。久良木郷の仁田にた峠はカタシ峠ともよばれ、江戸時代に峠近くで村境争論があったという(大村郷村記)。海沿いの往還筋に一里山が置かれていた(慶安二年肥前国道法帳)。江戸時代は大村領の外海そとめに属する。古くは田河氏の領知であったが、慶長年間(一五九六―一六一五)朝鮮出兵における軍功で富永忠清の知行となったという。

「大村家記」などによれば、天正一五年(一五八七)夏に長崎町・浦上うらかみ村・家野よの(現長崎市)外目ほかめ村が公領(豊臣秀吉の直轄領)となるが、慶長一〇年九月に長崎新町とその属邑が幕府領になるに伴い、浦上村・家野村・外目村は再び大村家領になったという。この外目村は黒崎くろさき(現外海町)陌苅あぜかり(現長崎市)・雪浦村のうちを含むとし、当時の田畑屋敷および小物成とも二八八石余で、うち陌苅村一三五石余・雪浦村一〇六石余・黒崎村一二三石余。同年の大村領内高目録に雪ノ浦村とみえ、高三九石余で、田二町六反余・畠一町六反余、物成二一石余。また別に「浦上ノ内雪ノ浦」として高二九石余で、田一町七反余・畠一町六反余、物成一五石余。同一七年の総検地では雪ノ浦として高七六石余となるが(同一八年彼杵郡内検高目録)、朱印高は一〇六石余とされた(元和三年「大村純頼領知目録」大村家記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報