雀部庄(読み)ささいべのしよう

日本歴史地名大系 「雀部庄」の解説

雀部庄
ささいべのしよう

平安最末期雀部郷内に成立した松尾まつお(現京都市西京区)領荘園。江戸時代の前田まえだ村・つち村・戸田とだ村・石原いさ村・川北かわぎた村一帯に比定される。荘名は養和元年(一一八一)九月一六日付の丹波国宛官宣旨(松尾大社文書)にみえるのが早いが、松尾社領となったのは寛治五年(一〇九一)一一月のことで、天田郡前貫首丹波兼定の寄進による(同月一五日付「丹波兼定寄進状」松尾大社東家文書、以下東家文書と略す)

養和元年の官宣旨は、松尾社の供菜所天田川(由良川)で勝手に漁釣するのを停止したもので(→奄我庄、そのなかに引かれた社司の解状に「早上自社領雀部庄堺、下至丹後堺、可停止私漁釣」とあり、松尾社の供菜所が天田川の内、社領雀部庄堺より下、丹後堺より上にあったことが知られる。

〔成立〕

雀部庄の成立事情がみられるのは、建久八年(一一九七)の沙弥証阿(相頼)譲状である(松尾大社文書)

<資料は省略されています>

これによれば、当荘は松尾社神主相頼の父頼親が立荘したもので、荘の処分権は松尾惣官にではなく頼親に帰属するというのである。この事情は、建久九年一二月二〇日付の後鳥羽院庁下文(東家文書)にもみえる。この下文は同社前神主相頼法師が、社領雀部庄(年貢米弐百斛可□□之)などを櫟谷いちだに神社(松尾社末社、現京都市西京区)禰宜相久に、社領摂津国山本やまもと(現兵庫県宝塚市)などを相久の母因幡に譲渡しようとしたのを認可したもので、文中に引く相頼の解状に、雀部庄について「抑雀部庄者、為流失弐拾伍町代之上、親父頼親之時、相博加便宜之田畠、令庄号畢、於領(主カ)職者、任相頼之譲可知行也、不可依惣官之由、慥所書置也」とみえる。すなわち、雀部庄は「流失弐拾伍町代」であるうえに、相頼の父頼親の代に相博して「便宜之田畠」を加え、荘号したもので、領主職は世襲、松尾惣官の干渉は受けないというのである。東家文書中に、久安三年(一一四七)一一月八日付の天田郡宛丹波国留守所下文があるが、その事書中に「定遣松尾社庄并証菩提院領三条院勅旨田内流失実検使事」とあり、この際の「流失」が先の後鳥羽院庁下文にみえる「流失」とかかわるのであろう。

〔鎌倉期〕

嘉禎三年(一二三七)六月二〇日付秦相久譲状・同三〇日付同譲状(東家文書)により当荘は相久から「嫡男権神主相政」に譲渡された。ただ「当庄所当米内」から毎年五〇石が一期分として相政母に、荘内富田村(江戸時代の戸田村に比定される)が次男月読祝相直に、所当米一〇石が三男相用に、所当米一〇石ずつが二人の女子(犬一と姫一)一期分として相伝された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報