陳与義(読み)ちんよぎ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「陳与義」の意味・わかりやすい解説

陳与義
ちんよぎ
(1090―1138)

中国、宋(そう)代の詩人。字(あざな)は去非(きょひ)。号は簡斎(かんさい)。洛陽(らくよう)(河南省)の人。「墨梅」の詩が徽宗(きそう)に賞されて詩名があがった。37歳のときに国都の陥落にあって各地を放浪、杭州(こうしゅう)にいた高宗に招かれて参知政事(副宰相)になった。平生から杜甫(とほ)を慕い、戦乱下の放浪の体験がいっそう杜甫への親近を増したと自ら述べている。素直な叙情叙景の詩は唐詩に似た平明さがあり、感情を新鮮な感覚でとらえた景物に移入する叙情は、宋の中期における唐詩風なものへの回帰を示している。著に『簡斎詩集』30巻がある。

[横山伊勢雄]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「陳与義」の意味・わかりやすい解説

陳与義
ちんよぎ
Chen Yu-yi

[生]元祐5(1090)
[没]紹興8(1138)
中国,南宋初の詩人。洛陽の人。字,去非。号,簡斎。政和3 (1113) 年進士に及第。陳留 (河南省) に左遷中,靖康の変にあって南に逃れ,数年間流亡ののち高宗に招かれて兵部員外郎となり,翰林学士,参知政事に進んだ。詩文にすぐれ,北宋時代につくった『墨梅』の詩は徽宗 (きそう) に愛唱された。兵乱を避けて流浪を続ける間,杜甫に深く親しみ,きめ細かな抒情で南宋初の詩壇では一頭地を抜き,黄庭堅,陳師道とともに江西詩派の三宗の一人。詩文集『簡斎集』 (16巻) 。

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世界大百科事典(旧版)内の陳与義の言及

【宋詩】より

…点鉄成金,換骨奪胎と称して,古人の詩句を自在に活用する手法を駆使して,宋詩の主知主義を極限まですすめ,多くの模倣者を出し,江西派という詩派を作りだす。 南北宋過渡期の陳与義(1090‐1138)は,激動の中で唐詩の抒情性への回帰が見られ,この傾向は南宋の三大家と呼ばれる陸游,范成大,楊万里に引き継がれた。3家の詩はいずれも金に北方領土を奪われた国家の状況に対する憂慮という当時最大の歴史的課題を主題としつつ,社会と自己の身辺の現実を凝視する。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」