閉伊郡(読み)へいぐん

日本歴史地名大系 「閉伊郡」の解説

閉伊郡
へいぐん

「延喜式」「和名抄」には記載されず、律令国家による建郡の記録はないが、奈良時代初頭より権郡として存在したと考えられる。古くは閇、のち幣伊・弊伊・閇伊と書く。「続日本紀」霊亀元年(七一五)一〇月二九日条に、「請於閇村、便建郡家」とみえるが、正規に郡が設置されたのは文治五年(一一八九)の奥州合戦後といわれる。郡名の初見は元亨四年(一三二四)一一月二三日の関東下知状案(宮古田鎖文書)で「陸奥国閉伊郡呂木」とある。近世の郡域は、東は太平洋に面し、西は北から岩手・紫波しわ稗貫ひえぬき和賀江刺の五郡に接し、南は気仙けせん郡、北は九戸郡に接する。おおむね北上高地と三陸沿岸部からなる広大な郡域を有した。

〔古代〕

前掲「続日本紀」の記載は蝦夷の須賀君古麻比留らの奏上で、当地において採取された昆布を年々欠かさず貢献していたが、国府へは遠いため辛苦が多く、閇村に郡家を建てることを要求している。これによって、のち閇村は権郡の扱いとなったと考えられるが、その範囲は海岸部のいくつかの集落を一括したもので、文面からして広範囲をさすとは考えられない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報