長善寺(読み)ちようぜんじ

日本歴史地名大系 「長善寺」の解説

長善寺
ちようぜんじ

[現在地名]静岡市本通六丁目

本通ほんとおりの西側にある時宗寺院。山号は宝地山、院号は蓮華院、本尊は阿弥陀如来一華いつけ堂の号があり、戦国期から近世の史料には一花堂ともみえる。寺伝によれば、元応二年(一三二〇)の開創。遊行二世真教が開基で、弟子乗阿が開山という(駿河志料)。永正一〇年(一五一三)時宗の相模清浄光しようじようこう(現神奈川県藤沢市)北条氏と三浦氏との合戦で焼失したことにより、同寺本尊が当寺に移されたという(遊行廿四祖御修行記)。同時に遊行二一世知蓮が当寺に入り、同年五月八日に当寺において死去。その直前の五月三日には遊行二二世意楽が当寺で念仏札を配っている(以上「遊行歴代譜」)

長善寺
ちようぜんじ

[現在地名]三加茂町中庄

JR徳島線三加茂駅のすぐ南の丘陵中腹にある。駅路山三宝院と号し、真言宗御室派。本尊は虚空蔵菩薩。縁起によると空海の開基と伝え、中世金丸かなまる庄内に存在した。同庄に勢力を有した祖谷いや山の阿佐氏が保護したとされる。天正一二年(一五八四)堂宇を焼失したが、翌年から住僧良玄によって再建されたという。慶長三年(一五九八)伊予街道沿いのわき(現脇町)池田いけだ(現池田町)の中間地点として、駅路寺に指定された(阿淡年表秘録)

長善寺
ちようぜんじ

[現在地名]大胡町堀越 殿町

大胡城跡の西側丘陵上にあり、寺境の西は寺沢てらさわ川の崖をなしている。山号は豊国山、もとは赤城山と称した。曹洞宗。本尊釈迦如来。開基は大胡太郎左馬助と伝え、大胡城主大胡氏菩提寺であった。開山は大雲、館林市善長ぜんちよう寺の開山と同人であろう。寺伝によれば赤城山中の白草しらくさ(滝窪の小字)の寺沢窪に創建されたが、弘治―永禄年間(一五五五―七〇)に大胡氏の要請で現在地に移転、改めて後の開山瑞誉(前橋市橋林寺五世)を迎えた。その三世南江道根は大坂城に出入りし豊臣秀頼から自筆の「豊国山」の書を賜り、後に山号とした。また朝鮮皿一〇枚を賜り、ともに寺宝としている。

長善寺
ちようぜんじ

[現在地名]竹原市東野町 山田

賀茂川の西岸山際にあり、日照山と号す。浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。建久年間(一一九〇―九九)竹原西野たけはらにしの村に天台宗大内山長善庵として創建されたと伝える。永正一一年(一五一四)玄智が真宗に改め長善寺としたが、永禄五年(一五六二)・慶長一九年(一六一四)に火災に遭い、元和元年(一六一五)順長の時、豊田郡入野にゆうの大谷おおや(現賀茂郡河内町)に移った。

長善寺
ちようぜんじ

[現在地名]西区上小田井一丁目

放光山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。天文八年(一五三九)心養坊の開基で、初め心養しんよう坊と称したが、正保四年(一六四七)三世祐春の時に現在の長善寺と改号した(徇行記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報