金丸庄(読み)かなまるのしよう

日本歴史地名大系 「金丸庄」の解説

金丸庄
かなまるのしよう

三加茂町のうち加茂かもを除いた地域に比定される。南北朝時代には金丸東庄・同西庄・同中庄の庄名もみえる。中庄・西庄はそれぞれ大字として地名が残り、東庄は毛田けたにあたるとされる(「阿波志」など)。建久三年(一一九二)三月日の後白河院庁下文案(大徳寺文書)に「阿波国金丸庄」とみえ、京都蓮華王院(三十三間堂)領とある。同下文は後白河法皇の愛妃高階栄子(丹後局)とその子孫に対して所領の領掌を認めたもので、蓮華王院領であった当庄もその一つであった。その後、当庄は丹後局の子孫である山科家に伝えられたが(「山科家礼記」文明一二年一一月一五日条)、鎌倉期にはすでに不知行となったと考えられる。

鎌倉中期、当庄は山城醍醐寺領となっているが、その経緯は不明。寛喜三年(一二三一)八月二八日の前権僧正成賢譲状等案(醍醐寺文書)に「阿波国金丸庄」がみえ、当庄は成賢(藤原信西の孫)より道教法眼(のちの三宝院門跡)に遍智院の堂舎などとともに譲られた。同譲状等案によれば、当庄はほかの庄園と異なり、預所職を孝賢律師に指定する旨の記載があり、遍智院が庄務権を有していたとみられる。同年九月日の成賢置文案(高山寺文書)に遍智院領として庄名がみえる。嘉禎二年(一二三六)五月日の権大僧都道教譲状案(醍醐寺文書)では、遍智院・覚洞院の堂舎・僧房などとともに親快法眼に譲られ、預所職は良成阿闍梨に定められた。文永二年(一二六五)一月には覚洞院の堂舎などとともに親快から実勝法印へ譲られた(同年正月日「僧親快譲状案」同文書)。親快は同日付の他の譲状(同文書)で遍智院・高良こうら(現福岡県久留米市)を実勝法印に譲っており、遍智院門跡と当庄は親快から実勝へ伝えられた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報