金上村(読み)かながみむら

日本歴史地名大系 「金上村」の解説

金上村
かながみむら

[現在地名]会津坂下町金上

阿賀川と旧みや(鶴沼川)のほぼ中間に位置し、西の旧宮川対岸は坂下村。東は履形くつがた村・村田むらた村で、江戸時代末期にその中間にあった東金上村を分離独立させた。「会津旧事雑考」所収天喜五年(一〇五七)六月三日の八幡宮神役目録に「金上村矢鏑流馬一番」とある。当地の初代地頭で蘆名氏一族の藤倉盛弘は建長四年(一二五二)津川つがわ(現新潟県津川町)津川城を築き、二代盛仁の時に姓を金上と改め、一五代盛備まで在城したという(会津坂下町史)。金上盛備は文武兼備の士で、蘆名盛氏の使者として京都に上ったこともあるが、天正一七年(一五八九)磨上原の戦で戦死した。長禄二年(一四五八)八月二四日金上氏を大将とする蘆名勢七千余騎は伊達氏と戦っている(塔寺八幡宮長帳)

金上村
かねあげむら

[現在地名]勝田市金上

那珂川と中丸なかまる川の間の舌状台地の中ほどにあり、西は勝倉かつぐら村。小場江おばえ眼下に見下ろす台地の先端に中世の館跡がある。「水府志料」は「深二丈余の堀あり。四方に高土手矢倉の跡あり。堀より西を御城山と唱へ、東を外城山と云ふ。何人の居なるを知らず」と記す。鎌倉時代大掾一族の吉田氏が勝倉・三反田みたんだの地に勢力を伸ばしていくなかで村域はその支配を免れていることから、独自の勢力を築いた豪族がいたと考えられ、勝倉境にある二の堀、三反田側にある新堀とよばれる堀跡は、吉田氏一族の勢力から村域を防御する目的で構えられたものとみられる(勝田市史)

金上村
かねあげむら

[現在地名]北浦村三和みわ

北浦西岸にあり、北は穴瀬あなせ村。戦国期以降は武田たけだ郷に属し、武田氏が支配した(新編常陸国誌)。天正一九年(一五九一)の同氏滅亡後佐竹・仁賀保・皆川各氏領を経て、元禄一三年(一七〇〇)守山(松川)藩松平氏領となる(徳川加封録、寛政重修諸家譜)。寛政元年(一七八九)の常州御領銘細帳写(宮内家蔵)には村高二二八石余、田一五町余・畑一四町余、家数二二・人数七九、物成米は当河岸積出し、寺一ヵ寺(天台宗西久院)、鎮守羽黒山(祭九月二八日)、用水溜池三ヵ所(二ヵ所は三ヵ村入会、一ヵ所は長六〇間・横五〇間ほど)などと記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報