田結庄(読み)たいのしよう

日本歴史地名大系 「田結庄」の解説

田結庄
たいのしよう

古代の城崎きのさき田結たゆい(和名抄)の郷域の一部が庄園化したもので、現在の田結たいから円山まるやま川流域にいちおう比定される。しかし弘安八年(一二八五)但馬国太田文では別に田結たい郷があり、田結庄は上三江かみみえ庄と下三江庄の間に記されていることから、もと三江郷域であったことも考えられる。「但馬考」は、三江郷内であったとみられる山本やまもと金剛寺こんごうじ船町ふなまち宮島みやじまもり野上のじようの六村を「俗に田結庄と云」とし、つる城に田結庄左近将監がいたからだという。なお鶴城跡は山本にある愛宕あたご山の山頂付近に、削平地や堀切などの遺構が確認されている。田結庄は海岸部から現山本付近まで円山川流域に散在していたのかもしれない。

承久三年(一二二一)と推定される閏一〇月九日付の北条義時書状(増野春氏所蔵文書)に、「田結庄濫妨事」の停止を命じた下知状を献覧したとみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報