野母村(読み)のもむら

日本歴史地名大系 「野母村」の解説

野母村
のもむら

[現在地名]野母崎町野母

野母半島の南西部に位置し、南西部に権現ごんげん山、南端に野母崎がある。北に開く深い入江が形成され、浦口の北に島が浮ぶ。中世は野母などとみえる。天正一五年(一五八七)豊臣秀吉による九州仕置では深堀純賢は長崎半島のほぼ全域を安堵されるが、同一六年に海賊行為を責められて没収され、うち「野母村・高浜村」など三ヵ村一千石は豊前小倉こくら(現福岡県北九州市小倉北区)城主毛利吉成の支配下に入った(同年六月一五日「豊臣秀吉朱印状写」鍋島直茂公譜考など)。深堀氏の旧領の回復後も当地などは返還されずに幕府領のままで、江戸時代を通じて変わることはなかった。慶長国絵図に「野母」「野母城」とあるほか、「野母ノ内 高浜」などと記される。元和九年(一六二三)野母村の二人が伊勢参宮に赴いている(「御参宮人帳」橋村家文書)。正保二年(一六四五)長崎代官末次平蔵のもと国絵図作製のため野母村と御崎みさき村の境目が定められ、「里うの島」(竜の島)の北境は野母道より浜道に下る境などとなっている(「御書其外書抜」菩提寺文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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