野々宮村(読み)ののみやむら

日本歴史地名大系 「野々宮村」の解説

野々宮村
ののみやむら

[現在地名]茨木市野々宮一―二丁目・東野々宮ひがしののみや町・宮島みやじま一丁目・小柳こやなぎ町・玉島たましま一丁目

十一じゆういち村の南にあり、中央を安威あい川、南東たま川が流れる低湿地帯。村の東部に小字落合おちあいがあり、「新古今集」に「あしかもの騒ぐいりえのみづの江のよにすみ難きわが身なりけり」とある「みづの江」を当地にあてる説もある(摂津志・大阪府全志)。慶長一〇年(一六〇五)摂津国絵図に「野々宮村」がみえ、高五二六石余。元和初年の摂津一国高御改帳も同高で、うち一六五石余は高槻藩内藤信正の、三六〇石余は旗本石川貞政の知行

野々宮村
ののみやむら

[現在地名]西尾市野々宮町

市の南に位置し、矢作古やはぎふる川の右岸にある。北は斎藤さいとう村、東は横手よこて村、南は平口ひらぐち村、西は市子いちご村に接する。三河国内神名帳に「従四位下 斎宮明神 坐幡豆郡」とあるのはこの地で、清和天皇の貞観元年(八五九)大嘗祭に悠紀斎田が置かれ、本社はその斎宮・斎宮明神といったと伝えられ、野宮ののみや神社はこの斎宮明神であるとされる(福地村誌)。安永五年(一七七六)の記録(三州幡豆郡野々宮再興記)に次のように記す。

野々宮村
ののみやむら

[現在地名]日高市野野宮ののみや

新堀にいほり村の南、高麗こま川右岸にある。田園簿では高四五石余で皆畑、幕府領。延享三年(一七四六)から天保三年(一八三二)まで三卿の田安領(「田安領知村高記」葛生家文書など)幕末の改革組合取調書では旗本上田領。検地は寛文八年(一六六八)に行われた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

土砂災害

大雨や地震が誘因となって起こる土石流・地滑り・がけ崩れや、火山の噴火に伴って発生する溶岩流・火砕流・火山泥流などによって、人の生命や財産が脅かされる災害。...

土砂災害の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android