野々口村(読み)ののくちむら

日本歴史地名大系 「野々口村」の解説

野々口村
ののくちむら

[現在地名]御津町野々口

旭川右岸、大月おおつき村の北に位置する。吉尾よしお川下流の平地に水田が広がり、その中央部および山際に集落が散在する。康永元年(一三四二)の「備前一宮社法」に「まき村上下より、野々口村、よしお村より金川上下まて、しはいのよし」と記される。年未詳五月六日の某三人連署要脚銭催促状(大村文書)に「吉尾野之口」とある。天文(一五三二―五五)頃の大村家盛道中日記(同文書)は野々口から書始められ、今保いまほ(現岡山市)まで五里と記される。年未詳四月二七日の日宥書状(同文書)は野々口村庄屋半左衛門に宛てられている。寛永備前国絵図に高三五〇石余とある。

野々口村
ののぐちむら

[現在地名]吉野町大字国栖くず

高見たかみ川北岸、新子あたらし村の東に位置する。国栖郷のうち。慶長郷帳では村高一一六・三九石、旗本辻子和泉領。幕府領となったのは、元和五年(一六一九)と考えられる。延宝検地により村高は一五九・〇〇二石となった。

延宝七年(一六七九)の大和国吉野郡野々口村検地帳では中田二反五畝二歩、下田七畝九歩、下々田六畝一八歩とあり、楮畑・漆畑・茶畑が記されている。ほかに惣村持の雑木・柴山八町四反歩、国栖郷六ヵ村立会の新子村浄土寺請の薬師観音さい杉山(草山)、藪二反五畝五歩、栢木一〇五本があり、除地に薬師堂・竜泉りゆうせん寺があった。

野々口村
ののぐちむら

[現在地名]飯高町野々口

神殿こうどの村の西にあり、村域の北部から東部にかけて櫛田くしだ川が蛇行する。寛永一八年(一六四一)検地帳(徳川林政史蔵)に「野々口村」と記されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

自動車税・軽自動車税

自動車税は自動車(軽自動車税の対象となる軽自動車等および固定資産税の対象となる大型特殊自動車を除く)の所有者に対し都道府県が課する税であり、軽自動車税は軽自動車等(原動機付自転車、軽自動車、小型特殊自...

自動車税・軽自動車税の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android