都志郷(読み)つしごう

日本歴史地名大系 「都志郷」の解説

都志郷
つしごう

現五色町北西部、都志地区一帯に比定される。「和名抄」記載の津名郡都志郷の後身とみられる。貞応二年(一二二三)の淡路国大田文に「国領」として郷名が表れ、田二一町八反一五〇歩(うち除田五町一反六〇歩・残田一六町七反九〇歩)・畠一三町二反六〇歩(うち除畠二町二反・残畠一一町六〇歩)および浦一所からなっていた。庄官・地頭については、文応元年(一二六〇)の関東下知状案(九条家文書、以下とくに断らない限りはすべて同文書)によれば、当初源次郎家平という武士公文としてこの地を知行していたが、治承・寿永の内乱の際家平は平家方につき一ノ谷合戦で戦死平家没官領として梶原景時が当郷地頭職を得て公文・地頭一円を沙汰した。景時ののち地頭職は周防蔵人高盛、さらに源頼朝のいとこにあたる三条局へ伝えられたが、承久の乱で三条局の娘婿藤原範茂が後鳥羽上皇方についたため乱で勲功のあった佐野左衛門尉景盛に替わり、宝治元年(一二四七)の宝治合戦の後は、同合戦の勲功として金子重高がこれを継いだ。地頭職が以上のように伝えられた一方、家平の家系も当郷の公文として生残った。文応元年にその孫左近将監俊宗は、公文職を剥奪しようとする地頭金子重高に対し、公文職は国衙の進止下にあることを主張したが、幕府は地頭側の主張を支持し、公文職は地頭の進止下におかれることが確認された。弘安五年(一二八二)一一月には当郷の検注が行われ、田数は合せて二八丁一反一〇〇歩、うち不作二丁九反五〇歩・見作二五丁二反六〇歩。除田七丁二反六〇歩のうちには長福寺・満願寺八幡宮若王子・大歳・神蔵宮・来光寺・安養寺神宮寺などの寺社分も含まれ、残る公田は一八町であった(年月日欠都志郷惣検名寄帳案・弘安一一年二月日都志郷検注田数目録案)

都志郷
つしごう

「和名抄」所載の郷。同書高山寺本は訓を欠くが、伊勢本・東急本は「豆之」と訓ずる。現五色ごしき町北西部、都志川の中流から下流にかけての都志地区辺りを郷域とする。同川右岸には方一町の地割遺構が推測され、当郷に条里制が施行されたと考えられている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報