郡戸庄(読み)ごうどのしよう

日本歴史地名大系 「郡戸庄」の解説

郡戸庄
ごうどのしよう

「こうとのしょう」ともよぶ。「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月一二日条の乃貢未済庄々注文に「殿下郡戸庄」とあるのが初見である。更に同年六月九日条に、後白河法皇春近はるちか並びに当庄の年貢を早く進済すべきことを源頼朝に命じた記事に、

<資料は省略されています>

とある。領家は同書の記載から、平安時代末期には摂関家藤原基通の所領であったことが知られる。また、建長五年(一二五三)の近衛家所領目録(近衛家文書)に当庄が記載されており、関白藤原忠実の女で鳥羽上皇の皇后である高陽院の領であったことがわかる。

郡戸庄
こおるどのしよう

現海津町・平田ひらた町辺りに比定されているが、史料にみえる地名が少ないためつまびらかではない。郡戸の読みは史料に「こうと」とみえるが、慣例に従う。揖斐いび川対岸の南濃なんのう町に上野河戸うえのこうずという地名があり、あるいはこの河戸が遺称地か。戦国期には「郡戸河関」とみえ、また慶長一八年(一六一三)銘の天満社社殿造立棟札写(東天神社蔵)に「石津郡河戸庄」とあり、関連がうかがえる。

「吾妻鏡」文治二年(一一八六)六月九日条に「春近并郡戸庄年貢事」とあるが、当庄かどうかは不明。建長二年(一二五〇)一一月日の九条道家初度惣処分状(九条家文書)に「美濃国郡戸庄」とあり、本家は八条禅尼、領家は道家室の准后綸子、地頭は鎌倉幕府評定衆の中原師員。また「地頭師員此一両年不進御年貢、被仰子細於関東、御返事未到」と注記され、地頭の未進のため九条家が幕府に訴えていることが知られる。

郡戸庄
こおとのしよう

近世の西高津にしこうづ村・東高津村辺り、現在の南区から天王寺区にかけての地域に比定される。「宣胤卿記」の明応六年(一四九七)一〇月一〇日条では当庄を摂関家渡領の一つにあげ、「群戸こうと」と記している。当庄の地域は中世熊野街道に沿い、いわゆる熊野九十九王子の第三社にあたる郡戸王子も存在した交通の要衝であった。保元二年(一一五七)一二月八日付法橋信慶書状(京都大学所蔵兵範記保元二年冬巻裏文書)にみえるのが早い。この書状は、当庄を含む。東北とうほく院領の摂津国三庄に関する公験を提出するよう官から催促を受けた信慶が、自分は数年知行しただけなので公験のことはまったく知らず、いかにすべきであろうかと摂関家家司平信範に問合せたものである。東北院は長元三年(一〇三〇)藤原道長の女上東門院彰子の御願寺で、所領は道長や彰子の寄進したものが主体になったといわれており、当庄もおそらく同院創建後のまもない時期に施入されたとみてよいであろう。信慶書状からもわかるように摂関家が本所で、中世になると殿下渡領東北院領の一庄になる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報