那賀庄(読み)なかのしよう

日本歴史地名大系 「那賀庄」の解説

那賀庄
なかのしよう

浜名湖西岸、中之郷なかのごう一帯に比定される。那賀庄としてみえるのは鎌倉期の史料のみであるが、地名は戦国期にみえる中之郷(中郷)に引継がれたとも推測できる。文永一〇年(一二七三)八月一〇日の関東下知状写(高野山文書)に「遠江国那賀庄」とみえ、那賀庄の百姓が預所の唯願に背いて神水を飲み、鐘を撞いて代官罷免を要求するという一揆を起こしたため、鎌倉幕府張本人を捕らえ流罪に処すよう命じている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報