浜田(読み)はまだ

精選版 日本国語大辞典 「浜田」の意味・読み・例文・類語

はま‐だ【浜田】

[1] 〘名〙 海岸近くにある田。浜辺の田。
※新撰六帖(1244頃)二「浦風にはま田のをしね打ちなびきはや刈りしほになりぞしにける〈藤原光俊〉」
[2]
[一] 島根県西部の地名日本海に面する。鎌倉時代以後、明・朝鮮との貿易で栄え、江戸時代は古田氏、本多氏松平氏などの城下町として発展。また、西回り航路の寄港地でもあった。日本海漁業の重要根拠地で水産加工業もさかん。昭和一五年(一九四〇市制
[二] 明治三年(一八七〇石見国に設置された県。同九年島根県に合併。

はまだ【浜田】

(「はまた」とも) 姓氏の一つ。

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デジタル大辞泉 「浜田」の意味・読み・例文・類語

はまだ【浜田】[姓氏]

姓氏の一。
[補説]「浜田」姓の人物
浜田国松はまだくにまつ
浜田耕作はまだこうさく
浜田庄司はまだしょうじ
浜田青陵はまだせいりょう
浜田彦蔵はまだひこぞう
浜田広介はまだひろすけ
浜田弥兵衛はまだやひょうえ

はまだ【浜田】[地名]

島根県西部の日本海に面する市。もと古田・松平氏の城下町。明治中期から輸出港、昭和初期から漁港も整備されて発展し、沖合漁業の基地。平成17年(2005)10月、金城かなぎ町・旭町・弥栄やさか村・三隅町と合併。人口6.2万(2010)。

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改訂新版 世界大百科事典 「浜田」の意味・わかりやすい解説

浜田[市] (はまだ)

島根県西部の市。2005年10月旧浜田市と旭(あさひ),金城(かなぎ),三隅(みすみ)の3町および弥栄(やさか)村が合体して成立した。人口6万1713(2010)。

浜田市東端の旧町。旧那賀郡所属。人口3198(2000)。南は広島県に接し,西境を江の川支流の市木川が北流する。北部は隆起準平原,南部は中国山地で急峻な地形をなし,町域の大部分が山林で占められる。雲月山付近は砂鉄の産地で鉄穴流(かんなながし)の遺構が見られる。近年,人口の減少が著しく,過疎対策として農林業の振興に力を入れ,米作を中心にシイタケ,栗,タバコ,ワサビの栽培,畜産を行っている。県境一帯は西中国山地国定公園に指定されている。浜田自動車道の旭インターチェンジがある。

浜田市東部の旧町。旧那賀郡所属。1969年町制。人口5216(2000)。南北に長く,南の広島県境は中国山地で,中央より北は隆起準平原の石見(いわみ)高原からなる。畜産の盛んな地域で,元谷と新開に畜産団地が造成され,県境に近い弥畝山にあった県営牧場では,大田市の三瓶牧場で飼育された子牛を夏季放牧していた。タバコ,高冷地野菜の栽培を行い,ワサビ,シイタケの生産にも力を注いでいる。島村抱月の生地で抱月公園があり,美又温泉(単純泉,40℃),民俗資料館,スキー場など観光に力を入れている。伝統芸能として石見神楽,田ばやしがある。国道189号線が貫通し,広島市との結びつきが深まっている。浜田自動車道のインターチェンジがある。
執筆者:

浜田市北西部,日本海に面する旧市。1940年市制。人口4万7187(2000)。石見地方の中心都市で,古代には石見国の国府が置かれた。松平氏の藩政時代に植林計画が進められ,平安時代からの石見(石州)半紙の生産,養蚕が奨励された。また砂鉄,石州瓦(赤瓦),粗陶器などの特産物の生産も始まった。明治維新後,殿町など浜田川北岸の侍屋敷は官公庁街,住宅街に,南岸の町屋は商店街となった。日本海沿岸はリアス海岸で冬の季節風を防ぐのによく,帆船時代,とくに長浜港(現在は浜田港に含まれ,商港となっている)は朝鮮交易で栄えた。浜田港は明治半ばに外国貿易港に指定され,神戸税関支署も置かれた。1933年には漁港の整備が完成し,山陰西部の漁業基地となった。かまぼこなどの水産加工も盛んである。西部の周布(すふ)には木工団地がある。1872年(明治5)の地震により4300戸が全壊したが,畳ヶ浦の海岸がこのとき隆起して千畳敷(天)の景勝地をつくった。JR山陰本線,国道9号線が通じ,浜田自動車道の浜田インターチェンジがある。
執筆者:

石見国の城下町。1543年(天文12)毛利氏は一族の繁沢元氏を那賀郡浜田の夕日ヶ丘において石見支配の一拠点とした。1619年(元和5)古田重治が石見国に封じられ浜田藩が成立すると,古田は夕日ヶ丘を含む亀山に浜田城を築き,山麓一帯を曲輪内として上・中級武士の居住地とした。城下町は浜田川左岸の原井村の一部に造成し,ここに紺屋町,新町,片庭町,蛭子(えびす)町,檜物屋(ひものや)町,門ヶ辻(かどがつじ)町,辻町,原町が成立した。これが浜田八町で,武士,町人の混住もあった。1733年(享保18)の記録では八町621戸,士屋敷264戸,浦方185戸とある。浦方には浜田浦,松原浦,瀬戸ヶ島があり,天然の良港外ノ浦(とのうら)は西廻海運開発以来その寄航地として栄え,多くの廻船問屋も成立した。戸数も八町,士屋敷がほとんど変化がないのに対し,浦方では1848年(嘉永1)には440戸と著しい増加をみる。浜田からの積荷銑鉄,扱苧(こきそ),半紙,干鰯(ほしか),生蠟(きろう)などの浜田藩特産物で,揚荷は米,塩,砂糖などが主であった。1836年(天保7)密貿易が発覚した竹島事件の中心人物会津屋八右衛門は松原浦の廻船問屋であった。66年(慶応2)長州戦争に敗れ浜田藩は消滅し,石見の政治の中心は邇摩(にま)郡大森に移った。70年浜田県となり県庁も浜田へ移され,再び石見の政治・経済・文化の中心地となった。
執筆者:

浜田市西端の旧町。旧那賀郡所属。人口8073(2000)。日本海に面し,北東は旧浜田市に,南西は益田市に接する。中央部を三隅川が流れ,上流には御部(おんべ)ダムがある。三隅川流域に耕地が開け,米,タバコ,シイタケ,ブドウを産する。中心集落の三隅の東方にある高城山には,中世の豪族三隅氏の築いた三隅城跡がある。三隅神社はツツジの名所として知られ,矢原の三隅大平桜(天)は樹齢300年以上のヒガンザクラである。かつて石見地方の農村で作られていた石州半紙の伝統的製法は当地に残り,国の重要無形文化財になっている。日本海に沿ってJR山陰本線,国道9号線が通じる。

浜田市南部の旧村。旧那賀郡所属。人口1789(2000)。中国山地の隆起準平原上にあり,北部は周布(すふ)川を境に旧浜田市に接し,中央部を三隅川が南西流する。集落は谷間に散在し,中心集落は中央部の長安本郷。高冷地で耕地は少ないが,和牛飼育や野菜,シイタケ,ミツマタの栽培が行われる。被服,織物,電子機器の工場も立地する。県道の難所であった十国峠に1976年トンネルが開通し,80年には国道186号線に至る弥栄大橋が完成したことで,旧浜田市との交通の便はよくなった。1960年三隅川に県営木都賀(きつか)ダムが完成し,61年には周布川に中国電力の周布川ダムが建設された。
執筆者:

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