遍路道(読み)へんろみち

日本歴史地名大系 「遍路道」の解説

遍路道
へんろみち

四国八十八ヵ所の霊場(札所)を結ぶ道で、遍路・遍土へんどなどと称される巡礼者が利用する。四国霊場は弘仁六年(八一五)弘法大師が八十八ヵ所の霊場を開き、巡拝による滅罪を衆生に勧めたことに始まると一般に信じられている。そのほか、承和二年(八三五)大師没後に弟子の真済が、また貞観三年(八六一)大師の弟子高岳親王(真如法親王)が始めたとの説もあるが、定かでない。なお一般に四国遍路は、伊予の石手いして(現松山市)の縁起にみえる、天長年間(八二四―八三四)大師に帰依して八十八ヵ所を巡礼した伊予国浮穴うけな郡の右衛門三郎が最初といわれるが、伝説の域を出ない。

大師の聖跡を巡礼する風習は、初め真言僧の修行として行われた。「今昔物語集」巻三一第一四話に「今ハ昔、仏ノ道ヲ行ケル僧三人伴ナヒテ、四国ノ辺地ト云ハ伊予・讃岐・阿波・土佐ノ海辺ノ廻也、其ノ僧共其ヲ廻ケルニ(下略)」、また「梁塵秘抄」に「われらが修行せし様は 忍辱袈裟をば肩に掛け また笈を負ひ 衣はいつとなくしほたれて 四国の辺地をぞ常に踏む」とあり、四国の辺地を巡歴する修行僧のいたことが知られる。このような海辺を回る辺地修行が遍路の原初的姿とされるが、のち弘法大師信仰と結び付き、貴賤を問わぬ巡礼修行となった。修行僧に混じって多少とも俗人の巡拝が行われるのは中世後期頃からで、愛媛県松山市の四九番浄土じようど寺の厨子に、大永五年(一五二五)・同七年の年号とともに俗人と思われる名前の墨書があることなどで知られる。土佐郡本川ほんがわ越裏門えりもんの地蔵堂にあった鰐口の文明三年(一四七一)三月一日付の銘に「村所八十八ケ所」とあり(大日本金石史)、「村所」は「札所」の誤読とする説もあるが、札所が八八ヵ所と定まったのはこれ以前のことである。札所が現在の各寺院に定まるまでには多くの変動があり、遍路道の変化もあったと思われる。遍路道はまた巡礼者接待の場であり、茶屋・茶庵・茶ヤン・辻堂・大師堂などとよばれる茶堂が村境に設けられた。茶堂は長宗我部地検帳にも記載がある。大師信仰を背景とするものであるが、巡礼者接待を通し、農作物の品種交換、民俗の交流などがなされたと伝えている。

以下、現在の札所に視点をあてて土佐の遍路道をたどることにする。なお八十八ヵ所を阿波・土佐・伊予・讃岐の順に回るのを順打ち、その逆を逆打ちといった。阿波国(一―二三番・六六番の二四ヵ所)は「発心の道場」、土佐国(二四―三九番の一六ヵ所)は「修行の道場」、伊予国(四〇―六五番の二六ヵ所)は「菩提の道場」、讃岐国(六七―八八番の二二ヵ所)は「涅槃の道場」といわれる。

遍路道
へんろみち

四国霊場八十八ヵ所を結ぶ道。第一番札所霊山りようぜん(現鳴門市)を起点として第八八番札所の大窪おおくぼ(現香川県長尾町)に至る全長一四〇〇キロに及ぶ道。

四国遍路は、古くは「今昔物語集」巻三一(通四国辺地僧、行不知所被打成馬語第十四)に「四国ノ辺地」を回る僧侶の逸話がみえ、その起源を平安時代末期とみることができる。中世の遍路は僧侶たちの厳しい修行の場であったが、中世の弘法大師信仰の展開や西国三十三ヵ所観音霊場の成立による影響を受けて札所と遍路道が確定されていく。江戸時代になり、元禄―正徳年間(一六八八―一七一六)には庶民も参加する札所巡拝が盛んになり、ほぼ現在の遍路道が確定した。なお経路確定のうえで影響を与えたのは、四国霊場を二〇回踏破し、貞享四年(一六八七)の案内記「四国遍礼道指南」を記した真念と考えられている。霊場の回り方には、札所の番号順に回る順打ちと逆に回る逆打ちとがある。遍路を開始する徳島県を「発心の道場」、高知県を「修行の道場」、愛媛県を「菩提の道場」、香川県を「涅槃の道場」とよんでいる。

近世、阿波国内の札所は現鳴門市大麻町板東おおあさちようばんどうの一番札所霊山寺から、二番極楽寺(現同市)、三番金泉こんせん寺・四番大日だいにち寺・五番地蔵寺(現板野町)、六番安楽あんらく(現上板町)、七番十楽じゆうらく寺・八番熊谷くまだに寺・九番法輪ほうりん(現土成町)、一〇番切幡きりはた(現市場町)へ至る道はほぼ撫養むや街道沿いに西進する経路で平坦な道である。

遍路道
へんろみち

伊予の遍路道は、高知県宿毛すくも市の三九番延光えんこう寺から御荘みしよう町の四〇番観自在かんじざい寺に向かう宿毛道に始まる。宇和島からは宇和島道・大洲おおず道を通り、内子うちこ(喜多郡)で分れて久万くま(上浮穴郡)に入り、同町西明神にしみようじんで土佐道に合流、三坂みさか峠を下って松山市域に入り四六番浄瑠璃じようるり寺に至る。松山からは高縄たかなわ半島を海岸沿いに迂回する今治いまばり道を出入りし、今治からは山沿いに進み、難所として知られる六〇番横峰よこみね寺などを経て西条で同半島基部を東進してきた金比羅道に合し、伊予国最終の札所六五番三角さんかく寺に至るのがおよその道筋である。

右の経路のうち大洲道をそれて内子から久万町に出て松山に至る間は、伊予国の諸道中でも遍路のたどる最も特色のある道といえる。四三番明石めいせき寺は東宇和郡宇和町にあり、四四番大宝だいほう寺は上浮穴かみうけな郡久万町にある。この間一七里三四町の長い道のりである。

内子町の北で分岐して久万町大宝寺に向かう水戸森峠みともりとうの遍路道の傍らには、元禄二年(一六八九)の道標「これよりみきへんろミち」が立つ。

遍路道
へんろみち

四国霊場八十八ヵ所札所を結ぶ巡礼道。四国霊場の起源については空海が開創したとか諸説を伝えるが、平安時代末頃には僧侶らの遍路が知られ、庶民による遍路は近世に入ってからであり、とくに貞享四年(一六八七)宥弁真念が「四国遍礼道指南」を著して八八ヵ所とその順番を決めてからいっそう盛んとなった。案内書なども刊行され、全国各地からお遍路さんが来た。なお室町末期から戦国時代には、紀州熊野と同じように中辺路があったことが知られる(讃岐国分寺本堂落書)

讃岐の遍路道は六六番の雲辺うんぺん(現徳島県三好郡池田町)から始まる。六七番大興だいこう(現三豊郡山本町)までは一〇八町、険しい坂道である。大興寺からは北へ平坦な道をたどって二里ばかり行くと六八番神恵じんね院と六九番観音寺(現観音寺市)がある。これから一里の道を東に歩き、財田さいた川を渡れば七〇番本山もとやま(現三豊郡豊中町)に達する。ここから二里ばかり歩くと弥谷いやだに寺登り口と彫った建石があり、爪先上りの道を八町ばかりで七一番弥谷寺(現同郡三野町)境内に入る。本堂までの間の石面一面に彫られている五輪塔を見てから、死者の骨を納めてある洞窟を拝し、山を下りて一〇町ばかり歩くと七仏薬師堂がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報