追分村(読み)おいわけむら

日本歴史地名大系 「追分村」の解説

追分村
おいわけむら

[現在地名]軽井沢町追分

浅間山の南麓、標高一〇〇〇メートルの地にあり、中山道と北国脇往還の分岐点で、村名もこれに由来する。

はなれ山の西から断続する通称「駒飼の土堤こまがいのどて」は追分近くまで延びていて、古代の官牧長倉ながくら牧の境域であったことを示している。村内諏訪神社旧蔵の「紙本墨書大般若経」(昭和二九年焼失)の天正九年(一五八一)一一月から一二月の中に、「逐分諏訪大明神」「追分諏訪神社御宝前」あるいは「信州佐久郡長蒼郷追分大明神」等と記されて、ここが大井庄長倉郷にあり、追分とよばれたことが知られ、同経の施主に「追分 施主 尭泉坊 彦右衛門尉」等とあって、中世既に相当有力な集落のあったこともうかがえる。なお村の東にある浅間せんげん神社は、大山祇神・磐長姫を祀るが、これは本来浅間大神を遥拝する里宮で(軽井沢町志)山岳信仰の姿を残す。

追分村
おいわけむら

[現在地名]勇払ゆうふつ郡追分町美園みその向陽こうよう弥生やよい春日かすが豊栄ほうえいあさひ緑が丘みどりがおか柏が丘かしわがおか中央ちゆうおう若草わかくさ花園はなぞの本町ほんちよう青葉あおば白樺しらかば

昭和二七年(一九五二)から同二八年九月までの村。勇払郡安平あびら村の一部が同二七年八月一日に分離して成立、安平村から字追分・字中安平なかあびら・字明春辺あけしゆんべ・字支安平しあびらの四字を継承した(同三〇年「北海道市町村行政区画便覧」)。村成立以前の追分地区は、明治二三年(一八九〇)北海道炭礦鉄道室蘭線(現JR室蘭本線)・夕張支線(同石勝線)の工事開始により、同年千歳郡千歳村の新保鉄蔵が、同二四年に福井県人の松浦幸寿・堀田清太郎が入地して農業を開始、同二五年には石川県から表和平らが入地してマッチ軸木工場と呉服店を経営。

追分村
おいわけむら

[現在地名]草津市追分町

矢倉やぐら村の東に位置。村名は古代の東海道と東山道の分岐点であったことによるという。膳所藩領。寛永石高帳では高七六七石余。慶安高辻帳では田四一七石余・畑二三石余・永荒三二六石余、ほか小物成として米一〇石余。慶長一八年(一六一三)の戸田氏鉄黒印状(青地文書)では納米一九一石余で口米や新田にも賦課されている。毛付高に対する免は、寛文三年(一六六三)三ツ一分、貞享二年(一六八五)三ツ六分で他村に比べ低率であった(高岡文書)

追分村
おいわけむら

[現在地名]滑川市追分

早月はやつき川が形成した新扇状地東部に位置し、北東はなか村、北西は笠木かさぎ村。村名の由来は中世に栗山くりやま松倉まつくら(現魚津市)方面と魚津城方面に通ずる道の分岐点にあたったことによると伝える(早月加積郷土誌)。「越後下向日記」によると、延徳三年(一四九一)三月一四日に冷泉為広が「オイワケ」を通過している。正保郷帳では高二九三石余、田方一八町五反余・畑方一町余、新田高一八四石余。

追分村
おいわけむら

[現在地名]敦賀市追分・深坂ふかさか

疋田ひきた村の南に位置し、西近江路が通る。西近江路は敦賀から当地に至り、南下して山中やまなかを経て海津かいづ(現滋賀県高島郡マキノ町)へ向かう海津道(七里半街道)と南東の深坂越で塩津しおつ(現滋賀県伊香郡西浅井町)へ向かう塩津道とに分れていた。「敦賀志」は「むかしハ此村より東西への追分也、今ハ疋田より分る」と記すが、これは新道野しんどうの越の塩津道が天正年間(一五七三―九二)に開かれたためである。

追分村
おいわけむら

[現在地名]今津町追分

石田いしだ川に沿った山中にあり、当地で九里半くりはん街道から上古賀かみこが(現安曇川町)木津こうつ(現新旭町)への道が分れる。建保四年(一二一六)八月三日の延暦寺政所下文案(饗庭文書)によれば、木津庄の西限を示す地が追分であった。永正九年(一五一二)上坂宗左衛門尉・桂田弥七郎が「追分新関」を立てたが、五個商人などの放火などの方法を含む強力な反対でまもなく廃止された(年未詳六月七日「南北古賀出銭条々書案」今堀日吉神社文書)

追分村
おいわけむら

[現在地名]那須町蓑沢みのざわ

八溝やみぞ山塊北西端の狭い山間谷部に位置し、北は陸奥国旗宿はたじゆく(現福島県白河市)など、南は沓石くづいし村。三蔵さんぞう川の源流部にあたり、東部山間に発した同川はしばらく西流したのち、大きく向きを変えて南流する。集落はおもにこの曲流部に沿う。三蔵川沿いに北上した関街道は、同川から離れて北上を続け、村北端陸奥・下野国境の通称追分峠を越え、旗宿村へ向かう。寛文四年(一六六四)の黒羽藩領知目録(黒羽町蔵)に村名がみえ、近世初頭より黒羽藩領であったと推定される。元禄郷帳では高一五石余。天保郷帳では高四一石余。明治初年蓑沢村に合併した。

追分村
おいわけむら

[現在地名]龍野市神岡町追分かみおかちようおいわけ

野部のべ村・田中たなか村の東に位置し、東は下伊勢しもいせ(現姫路市)美作道が東西に通り、当村の西で因幡方面へ向かう道を分岐する。元禄郷帳に村名がみえ、横落(横内)村枝郷と注記される。高一九四石余。宝永六年(一七〇九)の林田藩領地方覚記(田淵家文書)に記載はないが、年未詳の林田藩領村名書付(揖保郡志)に村名がみえ、幕末まで林田藩領であった。天保郷帳では高二二六石余。

追分村
おいわけむら

[現在地名]清水市追分二丁目

元追分もとおいわけ村の西にある。東海道から分岐して清水町へ至る清水路が通る。江戸時代の領主の変遷は清水町に同じ。元禄郷帳では高一二八石余。明暦四年(一六五八)清水町と江尻えじり宿が荷物を奪い合ったとき、江尻宿は伝馬・駄賃馬ともに同宿の差配下であるとして、当地に新関を設けて清水町への輸送を阻止しようとしている(清水港沿革誌)。明治七年(一八七四)入江いりえ町に編入。

追分村
おいわけむら

[現在地名]大府市追分町

知多丘陵の北部山間にあり、鞍流瀬くらながせ川を境に西は長草ながくさ村、東はふたッ池を境に横根よこね村と接する。江戸後期の尾張八郡図によると大高おおだか(現名古屋市)から、追分新田を経て大符おおぶへ達する道の東側にある。「寛文覚書」によれば、概高二一五石余、田方一七町余・畑方二町一反余、家数八・人数五〇、大通行には鳴海なるみ宿(現名古屋市)へ人馬を出し、上洛・朝鮮人来朝・茶壺道中にも人馬役を勤めた。

追分村
おいわけむら

[現在地名]八尾町追分

高瀬たかせ村の北東方、室牧むろまき谷西部にある。正保郷帳に村名がみえるが、村高などは上中山かみなかやま村と合せて記される。元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳では柚木ゆのき村の一〇町ほど北西方にある枝村新田としてみえ、高三一石。

追分村
おいわけむら

[現在地名]亀岡市追分町

城地の北に位置し、大堰おおい(保津川)との間にある。亀山かめやま城築城に際し、追分村の人家は荒塚あらつか村分内の西町にしまち・北町に移され、城下町の一部を形成する。追分とは丹後と篠山ささやま方面とへの分岐点ということによるかと考えられる。

天保一二年(一八四一)の「桑下漫録」では高二六四・三四七石、戸数一〇六、亀山藩領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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