迫間村(読み)はさまむら

日本歴史地名大系 「迫間村」の解説

迫間村
はさまむら

[現在地名]関市迫間・迫間台はさまだい一―二丁目・新迫間しんはさま

木曾川支流の迫間川の水源域にあたる山村。東へ開いた谷間にあり、村名はその地形(狭間)によると思われる。加茂郡に属し、北は小迫間こはさま村・稲口いなぐち村・西田原にしたわら村、南部は迫間山・むかい山などが標高三〇〇メートル級の山稜をつくる。迫・大迫間、大廻間・下迫間とも記し、「はざま」ともいった。建武三年(一三三六)八月一〇日の鷲見忠保軍忠状写(長善寺文書)に「関迫北野」とみえ、当地などで南朝方の尾崎宮と合戦に及んでいる。その後、天文六年(一五三七)八月一日の斎藤道三書状写(金沢市立図書館蔵今枝氏古文書等写)によれば、同日の迫間口での今枝弥八の勲功が賞されている。

迫間村
はざまむら

[現在地名]玉名両迫間りようはざま

菊池川右岸にあり、北は玉名たまな村、西は河崎かわさき村、南は下迫間しもはざま村に接し、迫間渡がある。元亨元年(一三二一)三月三日の阿蘇社進納物注文写(阿蘇家文書)によれば、「こん大くうしはうとり申候初米所々」のうちに「はさま」がみえ、毎年二月に行われる田作祭料を進納していた。また年月日未詳の前中後欠の阿蘇社年中神事次第写(同文書)にも権大宮司請取分として「狭間」がある。

迫間村
はさまむら

[現在地名]山東町迫間

朝来山北麓、金梨かなし山南麓にあたり、二つの山のはさまにある。史料上は廻間とも記される(天保郷帳)。一七世紀前期・中期とされる国絵図(石川家蔵)に廻間とあり、正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図にも村名が記される。宝暦七年(一七五七)の但馬国高一紙では高三四〇石余。天明八年(一七八八)の高村附邑名控では高一四四石余。

迫間村
はさまむら

[現在地名]磯部町迫間

神路かみじ川と池田いけだ川下流の沖積低地にあり、東は上之郷かみのごう村に接する。天文二十三年十二月十九日文書(下之郷南氏旧蔵)には迫とある。字木津きづには先土器・縄文時代の、字上之広かみのひろに縄文時代の遺物包含層がある。近世は鳥羽藩領で、答志とうし郡に属した。享保一一年(一七二六)の村指出帳(徳川林政史蔵)によれば、高五五六・三一二石のうち山年貢三石、夫米高三九・一五三石が寛文四年(一六六四)から定引され、反畝不明の無地一・七一七石があった。

迫間村
はざまむら

[現在地名]足利市迫間町

北は大小だいしよう山系に湾入して狭間をつくり、南部は平坦地で南端を尾名おな川が東流する。北は大沼田おおぬまた村。寛永一〇年(一六三三)から旗本真田領で幕末に至る。慶安郷帳には「門村」(輪王寺本では「間村」で村高八五石余)とみえ、村高一八五石余、田高一二四石余・畑高六一石余。元禄郷帳では「廻間村」、天保郷帳では迫間村とみえ、「古者廻間村」と注される。

迫間村
はざまむら

[現在地名]玉野市迫間

長尾ながお村の北、かも川支流のひら川に沿って集落が開ける。寛永備前国絵図では高七五一石余。享保六年(一七二一)の田畠四八町五反余、家数九三・人数六四二(備陽記)。文化年間の「岡山藩領手鑑」によると高七五一石余、直高八八三石余で池田和泉の給地、田三二町三反余・畑一四町五反余、池九・樋二二・分木二・井戸一五、家数一三三・人数六一三、牛六三、猟師鉄砲二、紺屋二軒、酒造家一軒、指物大工三、医者・鍛冶・木挽各二、屋根葺一、御留山一ヵ所があった。

迫間村
はさまむら

[現在地名]大宇陀町大字迫間

西山にしやま村の西南方、西山岳東麓、阿紀あき神社北方の谷間に位置する。慶長郷帳・元和郷帳では「上間村」、寛永郷帳では「狭間村」とみえる。慶長郷帳による村高二一三・六一石。慶長六年(一六〇一)松山藩(福島高晴)領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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