近江大津宮跡(読み)おうみおおつのみやあと

日本歴史地名大系 「近江大津宮跡」の解説

近江大津宮跡
おうみおおつのみやあと

[現在地名]大津市錦織一―二丁目ほか

天智天皇が湖西の滋賀郡に移した近江大津宮跡。天智天皇六年(六六七)より天武天皇元年(六七三)までの都で、文献上は近江宮・大津宮のほか、志賀の都、楽浪の大津宮などとみえ、近江京・近江朝廷などとも書く。天皇はここで国内政治とともに当時の東アジア情勢をにらみつつ、庚午年籍を作成し、冠位制度を制定したとされる(→近江国。宮跡の所在地をめぐっては諸説あり論争が続いたが、発掘調査により錦織にしこおり地区を大津宮の中枢部とする見方がほぼ確定しつつある。一帯近江大津宮錦織遺跡として国指定史跡。

〔遷都の背景〕

「日本書紀」天智天皇六年三月一九日条に「都を近江に遷す、是の時に、天下の百姓、都遷すことを願はずして、諷へ諫く者多し、童謡亦衆し、日日夜夜、先火の処多し」とあり、近江への遷都に同意しない動きのあったように描いている。これより先、斉明天皇七年(六六一)七月二四日、百済の役のため筑紫の朝倉あさくら(跡地は現福岡県朝倉郡か)にあった斉明女帝が崩じて以降、直ちに称制して戦争の継続と敗戦後の処理に当たっていた中大兄皇子は、おそらく斉明天皇の後飛鳥岡本のちのあすかおかもと(跡地は現奈良県高市郡明日香村)にあったとみられるが、近江に新宮を造営し、翌天智天皇七年一月三日正式に即位した。この間の対中国大陸・朝鮮半島との緊張関係を同書を中心にみると、天智天皇二年八月の白村江での大敗後、倭の軍勢は九月以降百済からの撤退を開始しているが、引続き倭は唐・新羅連合軍の本土来攻の危機に直面している。この状況下天智天皇は三年二月に甲子の改革を宣し、新冠位二六階の制定により中央豪族の序列化・官僚化を断行して国内での権力の集中をはかり、一方では百済の亡命貴族を登用して対馬・壱岐・筑紫などに防人を派遣し烽火台を設置、「大宰府」と水城の造営を進めている。翌四年八月には長門と筑紫の大野おおの(跡地は現福岡県大野城市など)(基肄、跡地は現佐賀県三養基郡基山町)に朝鮮式山城を築いて軍事的な対応策を講じている。この時期新羅・唐いずれも倭国への派兵に踏みきれぬ状況にあったが、五年一〇月ついに唐が高句麗への征討を開始し、高句麗の使者が来日、情勢をつぶさに報告している。こうした緊迫化のなかで翌六年三月に近江大津への遷都が実行されたのである。同年一〇月には対馬に金田かねた(現長崎県下県郡美津島町)が、讃岐に屋島やしま(現香川県高松市)が、大和に高安たかやす(現奈良県生駒郡平群町など)が築かれ、依然本土防衛政策が遂行された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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