農人町(読み)のうにんまち

日本歴史地名大系 「農人町」の解説

農人町
のうにんまち

[現在地名]上野市農人町

東は車坂くるまざか町、西は赤坂あかさか町、南は田端たばた町に接し、北の坂を下れば上野村の田園地域。城下町に食入る形の町で、実質的には城下町の一町であるが、行政上は上野村の一部。農人地である上野村のうちの市街部ということで農人町とよばれたと思われる。上野村庄屋の支配下に属し、年貢を納め、町年寄・町肝煎の支配は受けない。当町は東出ひがしで妙華寺みようけじ町・愛染院あいぜんいん町・農人町本通・安楽院あんらくいん町の五つの通称町から成立つ。東出は町北部にある東西の町。東出より南北に二筋の道が通り、東は愛染院町、西は妙華寺町で、各々愛染院・妙華寺がある。妙華寺町は妙見みようけん町とも通称された。農人町本通は赤坂町の南口より車坂町に至る東西の通り。安楽院町は農人町本通から南に入る道筋で、安楽院がある。

「三国地志」に上野駅として「古駅ハ今ノ農人町ニアリ。或云、古ノ駅路ハ愛染院町ヨリ玄蕃町及ビ槨内ヲ経テ西ノ丸ヘ通ズト云」とあり、藤堂氏築城以前の東西の交通路は車坂町より当町内の東出に出て、赤坂町・玄蕃げんば町を横断し、後の大名だいみよう小路を通り、西之丸塔世とうせい坂を下り、小田おた(馬苦労町)に通じていたと想像される。

農人町
のうにんまち

堺の市街の東部、東堀に内接して南北に細長く連なる町で、堺廻り三ヵ村の農民の居住区。慶長二〇年(一六一五)大坂の陣の兵火によって堺周辺の農民も逃散したが、幕府は元和の復興に際して堺廻りの農民に対して還住令を出した。ところが元和の町割では市街の拡張が行われ、東方の北庄きたしよう村・中筋なかすじ村・舳松へのまつ村および南方のみなと村の土地が堀内に編入されて一千二〇〇石余りの潰高を生じたため、その代替の意味もあって、堀の内側に農人町が割当てられた。

農人町
のうにんまち

[現在地名]高知市農人町・南宝永みなみほうえい町・城見しろみ

菜園場さえんば町の東に続く町で、東は下知の常盤しもじのときわ町、南は堀川を挟んで九反田くたんだ。堀川に沿う表町とその北に並行する裏町との二筋からなる。寛永二年(一六二五)下知村に城下の外堤を築き、堤内の耕地を藩主の御手先農民に耕作させたが、長屋を貸与して農民を住まわせたので、この町ができたという。農民には年給九石ずつ与えたので九石きゆうこく町ともよばれた(高知市沿革略志)。城下設営当初に成立した町とは異なり、地子銭を負担しなければならなかった(「延宝九年差上折本」県立図書館蔵)。江戸時代中期の「高知城下町町風土記」によると東西二六〇間、南北四八間、家数一五。

農人町
のうにんちよう

[現在地名]丸亀市城西町じようせいちよう二丁目・中府町なかぶちよう五丁目

城の西側に位置する。南北の通りに沿う細長い町で、「西讃府志」に「中府門ヨリ北ニ入リ東ニ折レテ南条町ニ至ル町長サ一町十四間余」とあり、上南条かみなんじよう町南詰から中府門に至る城下の南出口に位置した。万治年間(一六五八―六一)の城下図では北側は新町、その南に餌差屋敷・小者屋敷とみえ、山崎氏時代に形成された町と考えられる。

農人町
のうにんまち

[現在地名]北区東天満ひがしてんま二丁目

河内かわち町の西にあり、天神裏門てんじんうらもん筋から北に延びる両側町。明暦元年(一六五五)大坂三郷町絵図に町名がみえるが、その後の絵図に付近に野畑との記載があるところから町名は農民の居住によるものと考えられる。元禄一三年(一七〇〇)の三郷水帳寄帳では屋敷数三〇・役数三〇役で、うち年寄分一役が無役。

農人町
のうにんまち

[現在地名]高砂市高砂町農人町

高砂町方二八町の一つ。地内にはもと高砂神社があり、古宮ふるみや地といわれた。高砂町由緒口上書(加藤家文書)によると、姫路藩初代藩主池田輝政による開発以前は「濃人町」付近に百姓家浜辺猟師人家が少々あるのみで、ほかは砂浜・高洲であったという。元禄期(一六八八―一七〇四)の高砂町図(船津家蔵)によると、町場の北端北堀きたほり川北岸沿いに東農人町から西へ東西に連なる町並。

農人町
のうにんまち

[現在地名]川之江市川之江町

八幡神社の南側の金比羅道沿いに、新町下しんまちしもの北に続いて農人町・塩谷しおや町がある。享保六年(一七二一)の川之江村明細帳には、町方に「農人町二町六間」と記されている。

農人町
のうにんまち

[現在地名]姫路市農人町

姫路城の西にある町人町吉田よしだ町の西に続く東西の町筋。各家が道に面してやや斜めに建てられ、のこぎり歯状に見える特色ある町並は今も残っている。慶長六年(一六〇一)の町割によって町場化したが、農民が多かったことから町名が付けられたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報