車尾村(読み)くずもむら

日本歴史地名大系 「車尾村」の解説

車尾村
くずもむら

[現在地名]米子市車尾

勝田かんだ村の東、日野川の沖積地にある。古くは日本海に至る広い湿地を占め「浜中の里」と称されたという(天保六年「深田氏願書」在方諸事控)。クズモのクズは砂地の浜をさす呼称、モは入江のあるところをモイとよぶ例があるから氾濫原内の入江や沼地の呼称と思われる。近世以前の日野川筋は現在より東にあって車尾地域は現日野川筋を含んで広がり、海岸線はかなり南部に入込んでいた。当村開発者と伝える深田氏は鎌倉時代末期に居住したとされる。なお元弘年中(一三三一―三四)後醍醐天皇が隠岐へ配流の途中深田氏宅に車を止めたことから、車尾の地名が付けられたともいう(伯耆志)。「伯耆志」所収の天正一五年(一五八七)三月一六日付の二通の大雄寺禅賀他三名連署状には「車尾之内皆生村」とみえており、当村がのちの海池かいけ(皆生)村を含んでいたことをうかがわせる。また戦国期成立の「老翁物語」には「くつもう」と記される。戦国末期から近世初頭にかけて、当村一帯日野川下流部から美保みほ湾に面した海岸部は、帰農した武士らによる開拓が進められ、海池村中島なかしま村などが成立した。なお寛文九年(一六六九)没した山池の池田氏の祖之政は、長者ちようじやはらの新田開発を願出、当村に逗留中病を発したという(「因府年表」など)

藩政期の拝領高は六一一石余、本免四ツ三分。幕末の六郡郷村生高竈付では生高九一〇石余、竈数一九四。「伯耆志」の高七六八石余、家数一九七・人数八四〇。東方日野川中にかつては中河原なかがわらとよばれる集落があったが洪水により失われ、高は当村に繰入れられたと記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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