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赤橋守時(読み)あかばしもりとき

日本大百科全書(ニッポニカ) 「赤橋守時」の意味・わかりやすい解説

赤橋守時
あかばしもりとき
(?―1333)

鎌倉幕府最後の執権。出生年を1295年(永仁3)とする説もある。鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)赤橋際(ぎわ)に居を構えた赤橋流北条久時(ひさとき)の子。母は北条宗頼(むねより)の娘。1307年(徳治2)従(じゅ)五位下左近将監(しょうげん)。1311年(応長1)引付衆(ひきつけしゅう)を経ずに評定衆(ひょうじょうしゅう)に就任。以後、讃岐守(さぬきのかみ)、武蔵(むさし)守、相模(さがみ)守を歴任。極位は従四位下。1326年(嘉暦1)4月執権に就任。1333年(元弘3・正慶2)5月18日、幕府軍6万を率いて、新田義貞(にったよしさだ)軍の将、堀口貞満勢を鎌倉小袋坂に防いだ。妹婿足利(あしかが)高氏(尊氏(たかうじ))の幕府離反を知ったが、得宗(とくそう)北条高時(たかとき)らの思惑を配慮し、自分は足利の縁者であるから退却できないと、その場で自刃した。法名慈光院道本。

[奥富敬之]

『多賀宗隼著『赤橋駿河守守時』(『鎌倉時代の思想と文化』1946・目黒書店・所収)』

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改訂新版 世界大百科事典 「赤橋守時」の意味・わかりやすい解説

赤橋守時 (あかはしもりとき)
生没年:?-1333(元弘3)

鎌倉幕府最後の執権。北条久時の長子。1326年(嘉暦1)北条高時,金沢貞顕のあいつぐ執権辞職,出家の後をうけて執権に就くが,得宗専制体制下執権の座は形式的なものであった。33年5月新田義貞の軍は鎌倉を攻撃。守時は洲崎防戦に努めたが敗れ,同月18日自分が足利尊氏の縁者(妹は尊氏室)であることを理由に退却を拒否して自刃したという。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「赤橋守時」の意味・わかりやすい解説

赤橋守時
あかばしもりとき

[生]?
[没]元弘3=正慶2(1333).5.18. 鎌倉
鎌倉幕府最後の執権。左近将監。六波羅探題北条久時の子。九州探題英時の兄。応長1 (1311) 年6月評定衆となる。正和2 (13) 年7月から嘉暦1 (26) 年まで引付頭人。正和5 (16) 年讃岐守,元応1 (19) 年武蔵守に任じられた。執権高時,貞顕が相次いで出家したため,嘉暦2 (27) 年4月 24日第 16代執権となったが,幕府内の実権は高時が握っていた。同年8月相模守に任じられ,同年閏9月2日従四位下に叙せられた。元弘3=正慶2 (33) 年5月,倒幕のため上野国に挙兵した新田義貞の鎌倉侵攻を迎え,18日戦死。娘 (妹?) 登子は足利尊氏の妻となっている。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「赤橋守時」の解説

赤橋守時 あかはし-もりとき

1295-1333 鎌倉時代武将
永仁(えいにん)3年生まれ。赤橋久時の長男。足利尊氏の義兄。正中(しょうちゅう)3年16代執権となる。鎌倉攻めの新田義貞軍を迎撃したが敗れ正慶(しょうきょう)2=元弘(げんこう)3年5月18日自刃(じじん)。39歳。鎌倉幕府最後の執権となる。法号は慈光院。法名は道本。

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